日本共産党Xデーの不発…役割を終えたゾンビ政党
代々木のドン・宮本顕治逝く。選挙期間中の訃報だが、報道各社の扱いは低調。すでに元議長も日共も「20世紀の遺物」…反ご皇室の汚物思想に塗れたゾンビ政党など我が国に不要だ。
京王帝都電鉄本線の府中の先に「聖蹟桜ヶ丘」という洒落た名前の駅がある。全国的な知名度は高くないだろう。その駅周辺に住む一人の高齢者がいた…
「聖蹟桜ヶ丘の老人」
代々木(日本共産党)のドンとして君臨した宮本顕治を示す隠語だ。その宮本顕治が選挙戦の真っただ中で鬼籍に入った。98歳。死因は老衰。昭和政治史を彩った巨魁にしてはひっそりとした最期だった。
▽聖蹟桜ヶ丘の宮本元議長宅(NNN)
古くから全身全霊で代々木を最大の敵として闘ってきた憂国諸氏にとっては様々な想いが去来する訃報なのではないか。
宮本顕治の訃報を受け、政界からは中川幹事長を始め「冥福を祈る」とのコメントが発表されたが、共産主義者にとってはやや失礼な悔やみの言葉だろう。「冥福」とは「死後の幸福」を意味する純仏教用語だ。
レーニンは怖がらずに墓に行ったというが、宮本顕治の場合はどうだったのか…許し難い宿敵ではあるが哀悼の意を捧げる。その訃報に際して意外だったのは報道の扱いが想像より格段に小さかったことだ。
これまで度々ミヤケン危篤説が流れたが、選挙期間中の訃報はタイミングとして妙でもあった。7月18日は志位和夫の『報道ステーション』出演が早くから決まっていた…弔い選挙に利用する可能性も考えられたが実際は違った。
▽宮本顕治元議長(毎日新聞)
代々木機関誌『赤旗』の扱いは意外なものだった。19日付けのWeb版では党幹部の柏崎被災地視察がトップで元議長の訃報は2項目目。実際の紙面でも1面トップから外れていたという。
参照:朝日新聞7月19日『宮本氏死去、「赤旗」は1面2番手の扱い』
すでに代々木でも「過去の人」になっていたのか、それとも権力パランスに関係した別の力学が働いたのか…他のメディアが評した“カリスマ”の最期にしては実に低調な扱いだ。
『赤旗』以外の報道各社は、それなりにスペースを割いて伝えたが、一政党を40年支配したドンとしては小粒な報道だ。代々木のXデーは不発に終わった印象である。
【粛清劇を生き抜いた代々木のドン】
代々木史とは反日謀略と党内抗争の血塗られた歴史だ。それは正に破綻した共産国家のミニ版である。
宮本顕治の“鮮烈デビュー”は、昭和8年末に起きた党員・小畑達夫リンチ殺人事件だった。都内の秘密アジトで小畑をスパイとして査問、暴行を加えたうえ屠り殺し、敷地内に穴を掘って埋めた事件である。
共産党は、被害者の特異体質が原因でナゼか死んだと主張、不当逮捕を強調。死に至った直接原因は詳らかではないが、死体遺棄は明らかである。これにより宮本顕治は無期懲役の刑に処せられた。
▽往年の宮本顕治(NNN)
ところが終戦後、GHQ令による政治犯釈放に絡んで出獄。治安維持法による逮捕者放免が功を奏した結果だった。代々木が難癖をつける治安維持法によって一転、米軍政に放免されたのは皮肉な事態である。
この時に限らず、代々木の暗部を映すのが「査問」である。今でも「調査審問」と名を変えて残っているが、キーワードの「査問」はトラウマになっているようだ。
2001年に起きたハワイの「えひめ丸事件」で米軍は「海軍査問会議」を開いたが、『赤旗』だけが審問会議と訳出。党の暗黒面を抉る「査問」を言葉ごと抹殺したい思惑が垣間見られる。
査問に代表される党内抗争・粛清劇こそ、日本共産党のお家芸だ。戦後序列2位だった伊藤律は、野坂参三と李初梨によって査問され、追放。その野坂も100歳を記念して宮本顕治によって除名されている。
▽六全協当時の野坂参三(YouTube)
代々木史とは党幹部死屍累々の歴史でもある。
宮本顕治が党内基盤を盤石にしたのも中共派の西沢隆二、ソ連派の志賀善雄といった重鎮を粛清し、権力を奪取した結果による。この辺りは北京・中南海の暗闘に酷似したサバイバル合戦だ。
*YouTube『伊藤律帰国』
宮本共産党は、一部で柔軟との見方もあったが、単なる日和見主義に過ぎない。共産主義の根幹をなす「プロレタリアート独裁」放棄にあたっても、独自の理論は示されなかった。
政治理論のない共産党などは中共現政権と同じく、単なる独裁機構だ。その中で戦前・戦後を通じて捨て去っていないものがある。それが反ご皇室だ。
【反国体32年テーゼの地下水脈】
日本共産党は大正12年にコミンテルンの日本支部としてブハーリンに認証され、産声をあげた。今も残る「日本」の冠は支部だったことを示す残滓だ。
▽昭和30年の代々木党本部
国際連帯とは聞こえが良いが、最初から日本をコミュニストの総本山に売り渡す意図で設立された政治謀略組織だった。社民党に看板を架け替えて「日本」の冠を外した旧社会党とも一線を画している。
外国政治組織の下部団体として出発した代々木の方向性を決定付けたのが、悪名高い「32年テーゼ」だ。コミンテルンの学者が書き上げたものを昭和7年に採用した綱領で、寄生的土地所有などの他に国体打倒を明確にしていた。
「天皇制」「天皇制度」という造語を翻訳して初めて使ったのが、この「32年テーゼ」だった。国体破壊が戦前の日本共産党最大のメーンテーマであり、同時にこの政党の正体を明かすものだ。
▽画像:NNN
3年前に代々木は党綱領を大幅に改訂し、一部では“国体容認”とも指摘されたが、反国体の本質は何も変わっていない。転向文学者の代表でもあった林房雄は三島由紀夫との対談で代々木を徹底的に罵倒している。
「マッカーサーは、打倒できないと見極めて天皇制を、避けて通ったが、日本共産党はいつか打倒してやるぞと避けて通っている。(略)打倒なら打倒の旗印を鮮明にすべきです。打倒できないというなら、あやまるべきだ。いまはやらぬが、そのうちに打倒してみせるぞでは三流政治だ」(『対話・日本人論』番町書房182~183頁)
さすが慧眼の林房雄だ。昭和41年の発言だが、代々木の欺瞞性を見事に指摘している。ちなみに三島由紀夫の日共嫌いも尋常ではないレベルだ。戦後の民族主義陣営は常に代々木を最大の敵として粉骨してきた偉大な歴史がある。
【最大の謎…宮本・池田極秘会談】
代々木の悪業で最も忌まわしきは、戦後の圧力団体を陰に陽に支援し、育て上げたことだろう。
現在は敵対関係にある部落解放同盟だが、前身の部落解放全国委員会(昭和21年結成)にも深く関わっていたことが知られている。
また戦後まもなく、在日犯罪組織の後ろ盾となったのも日本共産党だった。朝鮮総連の前身である朝連は結成当初、超党派的な団体であったが、日本共産党が介入したことで凶悪な暴力組織に変身する。
▽日共党員が支援した朝連本部
キーマンは終戦後、獄から野の放たれた日共幹部・金天海(キム・チョンへ)で、朝鮮人の警察署襲撃テロなどは日供の指令を受けたものだった。その後、金日成の個人崇拝を批判し、北朝鮮=総連とは仲違いするが、98年には再び反日共闘でタッグを組む。
場当たり的な合従連衡は一貫性のなさを物語っている。そして、宮本顕治が暗躍したのが池田大作との手打ちだ。
昭和49年12月、宮本顕治と池田大作が極秘会談を行い、創価学会と代々木が敵対関係を解消する秘密協定を結ぶ。今ではすっかり忘れ去られた「共創協定(=創共協定)」である。
▽95年当時の宮本元議長(朝日新聞)
仲介者は日共党員だった松本清張。この協定は暫く秘密にされていたが、極秘会談から半年以上経った昭和50年7月に公表される。「創共協定」は7項目からなり、相互理解や敵視政策の撤廃などが骨子だった。
有効期限は10年。しかし公明党内から国会対策上の異論があがったとされ、協定は死文化。更新は行なわれなかった。最もミステリアスな野合で、代々木も信濃町も今ではタブー扱いにしている。同様にマスコミも触れたがらない昭和の暗黒史である。
手打ち式に至るまで、どのような背景があったのか解き明かされていないが、イデオロギーをかなぐり捨て、ご都合主義で政敵と連携する日和見主義の好例だ。
【戦後の繁栄に甘えたゾンビ政党】
日本共産党は、戦後の我が国の繁栄という温室・ぬるま湯の中で育ってきた政党だった。それは資本主義と添い寝した共産主義政党とも揶揄される。
しかし総連・解同・三色カルトといった悪名高い圧力団体との一時的な連携を見る限りでは「タブーと寝た政党」といった表現の方が適切だろう。
▽衆院選躍進に湧く党執行部(毎日新聞)
オイルショックの直後、社会不安が日本列島を覆った昭和54年、代々木は衆院選で過去最大の41議席を獲得した。今では想像できない事態である。その後、知り窄みの状態が続いているが、現在でも衆参あわせて18議席をキープしている。意外な多さだ。
衆院選で躍進した10年後に、東欧の共産主義はドミノ的に崩壊した。この時、思想敗北で日本共産党は理論を放棄し、一種のカルトとして延命するしか選択はなかった。反日カルトである。その意味では創価学会との連携は今でも充分に可能だ。
一時期、「労働党」等への党名変更を模索しているとも伝えられたが、今更、看板を架け替えても無駄。組織の硬直性は、もはや治療不可能である。
▽看板を背負っていた頃の宮本共産党
元議長の死が今後の党運営に何ら変化をもたさらないとの見方は正しいだろう。しかし、それは「変えること」が出来ないのではなく「変わること」が出来ないだけだ。
共産主義、共産党は「20世紀の遺物」である。壮大な実権は億単位の犠牲者を生み出して全て失敗に終わった。成功確率はゼロ。イデオロギーの破綻と同時に、政党としての存在理由も失われた。
代々木は現在も強力な組織力を誇るが、党員の高齢化が加速していると言われる。この政党に残されたのは「反日」「反ご皇室」という丹生当時からの売国思想しかない。
徹頭徹尾、日本及び日本人にとって不要な政党である。Xデーは不発に終わったが、改めて党本体や周辺シンパが我が国に如何なる災厄をもたらしたのか、総括すべき頃合いだろう。
日本共産党とは、生ける屍たるゾンビ政党だ。自らの死に気付かない群れである。既に死んでいるだけに攻撃を受けても打たれ強い面はあるが、腐臭を放ったまま何時までも徘徊させてはならない。
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます♪
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発 となります
↓

【side story】
野暮用でエントリが滞り、失礼いたしました。空白期間でも支援クリックして頂いた方々に感謝申し上げます。ややネタが渋滞し、当エントリも少々遅れ気味のアップでした。
参考記事:
産経新聞7月18日『元共産党議長の宮本顕治氏が死去』
毎日新聞7月18日『宮本元議長死去:戦後の共産主義運動発展にリーダーシップ』
京王帝都電鉄本線の府中の先に「聖蹟桜ヶ丘」という洒落た名前の駅がある。全国的な知名度は高くないだろう。その駅周辺に住む一人の高齢者がいた…
「聖蹟桜ヶ丘の老人」
代々木(日本共産党)のドンとして君臨した宮本顕治を示す隠語だ。その宮本顕治が選挙戦の真っただ中で鬼籍に入った。98歳。死因は老衰。昭和政治史を彩った巨魁にしてはひっそりとした最期だった。
▽聖蹟桜ヶ丘の宮本元議長宅(NNN)
古くから全身全霊で代々木を最大の敵として闘ってきた憂国諸氏にとっては様々な想いが去来する訃報なのではないか。
宮本顕治の訃報を受け、政界からは中川幹事長を始め「冥福を祈る」とのコメントが発表されたが、共産主義者にとってはやや失礼な悔やみの言葉だろう。「冥福」とは「死後の幸福」を意味する純仏教用語だ。
レーニンは怖がらずに墓に行ったというが、宮本顕治の場合はどうだったのか…許し難い宿敵ではあるが哀悼の意を捧げる。その訃報に際して意外だったのは報道の扱いが想像より格段に小さかったことだ。
これまで度々ミヤケン危篤説が流れたが、選挙期間中の訃報はタイミングとして妙でもあった。7月18日は志位和夫の『報道ステーション』出演が早くから決まっていた…弔い選挙に利用する可能性も考えられたが実際は違った。
▽宮本顕治元議長(毎日新聞)
代々木機関誌『赤旗』の扱いは意外なものだった。19日付けのWeb版では党幹部の柏崎被災地視察がトップで元議長の訃報は2項目目。実際の紙面でも1面トップから外れていたという。
参照:朝日新聞7月19日『宮本氏死去、「赤旗」は1面2番手の扱い』
すでに代々木でも「過去の人」になっていたのか、それとも権力パランスに関係した別の力学が働いたのか…他のメディアが評した“カリスマ”の最期にしては実に低調な扱いだ。
『赤旗』以外の報道各社は、それなりにスペースを割いて伝えたが、一政党を40年支配したドンとしては小粒な報道だ。代々木のXデーは不発に終わった印象である。
【粛清劇を生き抜いた代々木のドン】
代々木史とは反日謀略と党内抗争の血塗られた歴史だ。それは正に破綻した共産国家のミニ版である。
宮本顕治の“鮮烈デビュー”は、昭和8年末に起きた党員・小畑達夫リンチ殺人事件だった。都内の秘密アジトで小畑をスパイとして査問、暴行を加えたうえ屠り殺し、敷地内に穴を掘って埋めた事件である。
共産党は、被害者の特異体質が原因でナゼか死んだと主張、不当逮捕を強調。死に至った直接原因は詳らかではないが、死体遺棄は明らかである。これにより宮本顕治は無期懲役の刑に処せられた。
▽往年の宮本顕治(NNN)
ところが終戦後、GHQ令による政治犯釈放に絡んで出獄。治安維持法による逮捕者放免が功を奏した結果だった。代々木が難癖をつける治安維持法によって一転、米軍政に放免されたのは皮肉な事態である。
この時に限らず、代々木の暗部を映すのが「査問」である。今でも「調査審問」と名を変えて残っているが、キーワードの「査問」はトラウマになっているようだ。
2001年に起きたハワイの「えひめ丸事件」で米軍は「海軍査問会議」を開いたが、『赤旗』だけが審問会議と訳出。党の暗黒面を抉る「査問」を言葉ごと抹殺したい思惑が垣間見られる。
査問に代表される党内抗争・粛清劇こそ、日本共産党のお家芸だ。戦後序列2位だった伊藤律は、野坂参三と李初梨によって査問され、追放。その野坂も100歳を記念して宮本顕治によって除名されている。
▽六全協当時の野坂参三(YouTube)
代々木史とは党幹部死屍累々の歴史でもある。
宮本顕治が党内基盤を盤石にしたのも中共派の西沢隆二、ソ連派の志賀善雄といった重鎮を粛清し、権力を奪取した結果による。この辺りは北京・中南海の暗闘に酷似したサバイバル合戦だ。
*YouTube『伊藤律帰国』
宮本共産党は、一部で柔軟との見方もあったが、単なる日和見主義に過ぎない。共産主義の根幹をなす「プロレタリアート独裁」放棄にあたっても、独自の理論は示されなかった。
政治理論のない共産党などは中共現政権と同じく、単なる独裁機構だ。その中で戦前・戦後を通じて捨て去っていないものがある。それが反ご皇室だ。
【反国体32年テーゼの地下水脈】
日本共産党は大正12年にコミンテルンの日本支部としてブハーリンに認証され、産声をあげた。今も残る「日本」の冠は支部だったことを示す残滓だ。
▽昭和30年の代々木党本部
国際連帯とは聞こえが良いが、最初から日本をコミュニストの総本山に売り渡す意図で設立された政治謀略組織だった。社民党に看板を架け替えて「日本」の冠を外した旧社会党とも一線を画している。
外国政治組織の下部団体として出発した代々木の方向性を決定付けたのが、悪名高い「32年テーゼ」だ。コミンテルンの学者が書き上げたものを昭和7年に採用した綱領で、寄生的土地所有などの他に国体打倒を明確にしていた。
「天皇制」「天皇制度」という造語を翻訳して初めて使ったのが、この「32年テーゼ」だった。国体破壊が戦前の日本共産党最大のメーンテーマであり、同時にこの政党の正体を明かすものだ。
▽画像:NNN
3年前に代々木は党綱領を大幅に改訂し、一部では“国体容認”とも指摘されたが、反国体の本質は何も変わっていない。転向文学者の代表でもあった林房雄は三島由紀夫との対談で代々木を徹底的に罵倒している。
「マッカーサーは、打倒できないと見極めて天皇制を、避けて通ったが、日本共産党はいつか打倒してやるぞと避けて通っている。(略)打倒なら打倒の旗印を鮮明にすべきです。打倒できないというなら、あやまるべきだ。いまはやらぬが、そのうちに打倒してみせるぞでは三流政治だ」(『対話・日本人論』番町書房182~183頁)
さすが慧眼の林房雄だ。昭和41年の発言だが、代々木の欺瞞性を見事に指摘している。ちなみに三島由紀夫の日共嫌いも尋常ではないレベルだ。戦後の民族主義陣営は常に代々木を最大の敵として粉骨してきた偉大な歴史がある。
【最大の謎…宮本・池田極秘会談】
代々木の悪業で最も忌まわしきは、戦後の圧力団体を陰に陽に支援し、育て上げたことだろう。
現在は敵対関係にある部落解放同盟だが、前身の部落解放全国委員会(昭和21年結成)にも深く関わっていたことが知られている。
また戦後まもなく、在日犯罪組織の後ろ盾となったのも日本共産党だった。朝鮮総連の前身である朝連は結成当初、超党派的な団体であったが、日本共産党が介入したことで凶悪な暴力組織に変身する。
▽日共党員が支援した朝連本部
キーマンは終戦後、獄から野の放たれた日共幹部・金天海(キム・チョンへ)で、朝鮮人の警察署襲撃テロなどは日供の指令を受けたものだった。その後、金日成の個人崇拝を批判し、北朝鮮=総連とは仲違いするが、98年には再び反日共闘でタッグを組む。
場当たり的な合従連衡は一貫性のなさを物語っている。そして、宮本顕治が暗躍したのが池田大作との手打ちだ。
昭和49年12月、宮本顕治と池田大作が極秘会談を行い、創価学会と代々木が敵対関係を解消する秘密協定を結ぶ。今ではすっかり忘れ去られた「共創協定(=創共協定)」である。
▽95年当時の宮本元議長(朝日新聞)
仲介者は日共党員だった松本清張。この協定は暫く秘密にされていたが、極秘会談から半年以上経った昭和50年7月に公表される。「創共協定」は7項目からなり、相互理解や敵視政策の撤廃などが骨子だった。
有効期限は10年。しかし公明党内から国会対策上の異論があがったとされ、協定は死文化。更新は行なわれなかった。最もミステリアスな野合で、代々木も信濃町も今ではタブー扱いにしている。同様にマスコミも触れたがらない昭和の暗黒史である。
手打ち式に至るまで、どのような背景があったのか解き明かされていないが、イデオロギーをかなぐり捨て、ご都合主義で政敵と連携する日和見主義の好例だ。
【戦後の繁栄に甘えたゾンビ政党】
日本共産党は、戦後の我が国の繁栄という温室・ぬるま湯の中で育ってきた政党だった。それは資本主義と添い寝した共産主義政党とも揶揄される。
しかし総連・解同・三色カルトといった悪名高い圧力団体との一時的な連携を見る限りでは「タブーと寝た政党」といった表現の方が適切だろう。
▽衆院選躍進に湧く党執行部(毎日新聞)
オイルショックの直後、社会不安が日本列島を覆った昭和54年、代々木は衆院選で過去最大の41議席を獲得した。今では想像できない事態である。その後、知り窄みの状態が続いているが、現在でも衆参あわせて18議席をキープしている。意外な多さだ。
衆院選で躍進した10年後に、東欧の共産主義はドミノ的に崩壊した。この時、思想敗北で日本共産党は理論を放棄し、一種のカルトとして延命するしか選択はなかった。反日カルトである。その意味では創価学会との連携は今でも充分に可能だ。
一時期、「労働党」等への党名変更を模索しているとも伝えられたが、今更、看板を架け替えても無駄。組織の硬直性は、もはや治療不可能である。
▽看板を背負っていた頃の宮本共産党
元議長の死が今後の党運営に何ら変化をもたさらないとの見方は正しいだろう。しかし、それは「変えること」が出来ないのではなく「変わること」が出来ないだけだ。
共産主義、共産党は「20世紀の遺物」である。壮大な実権は億単位の犠牲者を生み出して全て失敗に終わった。成功確率はゼロ。イデオロギーの破綻と同時に、政党としての存在理由も失われた。
代々木は現在も強力な組織力を誇るが、党員の高齢化が加速していると言われる。この政党に残されたのは「反日」「反ご皇室」という丹生当時からの売国思想しかない。
徹頭徹尾、日本及び日本人にとって不要な政党である。Xデーは不発に終わったが、改めて党本体や周辺シンパが我が国に如何なる災厄をもたらしたのか、総括すべき頃合いだろう。
日本共産党とは、生ける屍たるゾンビ政党だ。自らの死に気付かない群れである。既に死んでいるだけに攻撃を受けても打たれ強い面はあるが、腐臭を放ったまま何時までも徘徊させてはならない。
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます♪
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発 となります
↓

【side story】
野暮用でエントリが滞り、失礼いたしました。空白期間でも支援クリックして頂いた方々に感謝申し上げます。ややネタが渋滞し、当エントリも少々遅れ気味のアップでした。
参考記事:
産経新聞7月18日『元共産党議長の宮本顕治氏が死去』
毎日新聞7月18日『宮本元議長死去:戦後の共産主義運動発展にリーダーシップ』
この記事へのコメント
けだし、林房雄の名を見て、「大東亜戦争肯定論」の衝撃を身震いして思う。あれから40年。何度かの引越しをしたので、当該の書籍を失ったのが残念だ。
石原裕次郎や美空ひばりが亡くなった時『昭和が終わった』と言う実感があったが、宮本が死んで、ちょっとした不快を感じる程度の感慨しか湧かない。(そう言えば九鬼某の犯科帳閲覧事件ってなかったかな?)
昔小畑実という歌手がいたらしのですが、朝鮮人であることを隠して歌手活動をしていたそうです。この記事にある小畑氏は朝鮮人歌手小畑氏の世話をしてくれた秋田の方の親戚筋だそうです。共産党と在日が深い縁があったことは以前読んだことがあります。現在はどうなのでしょう?民主党と在日がつながってます。民主党が勝ったら、地方参政権付与と人権擁護法案成立に向け日本が危ない。民主党議員の当選は阻みたいと思います。民主党には入れないで!
寄生的土地所有・・・正しく戦後の朝鮮人による駅前一等地の強奪。見事にコミンテルンの忠実なる僕だったんですね、在日朝鮮人。
アメリカのように赤狩りも無かった日本って、よくも自由主義を今まで保てたもんです。在日米軍の存在はやはり大きかったのでせうか。
ところで、面白い話をひとつ。
昔、統一協会の信者脱会支援を手伝っていたときのこと、ある信者が、会社の後輩を引きずり込んだとの情報に、コチラはその後輩が洗脳される前に救出しようと、協会のセミナーと称する勧誘教育施設にその後輩の友人を装い潜入。そこで、自分の教育担当になった先輩信者が、ナント日本共産党創設メンバーの孫と称する人物だったのです。 本人は、罪深い先祖の因果を浄化する為に、統一協会に導かれたと固~く信じていました。 彼女があのまま脱会していなければ、今では幹部クラスでしょう。 皮肉なもんです。もしかして、今頃、共産党と反日共闘してたりして・・・。
「えひめ丸」の時の「審問」というのは知らなかった。
>代々木史とは党幹部死屍累々の歴史でもある。
独裁集団やカルトが生き残るための法則は、ライバルを倒してトップが君臨し続けること。その意味で、議長を未だに3人しか輩出していない代々木は法則に適っている。
だが、長期政権=腐敗であるから、勢力拡大は不可能。代々木もカルトも今以上に勢力が拡大することは決してあり得ない。
それにしても、死屍累々の歴史の中で98歳まで生き抜くにはよほど相手を…?ミヤケンは「過去の人」になってからも、分子が四六時中、聖跡桜ヶ丘の御殿を警固していたという。
3年前の綱領見直しは、本音の国体破壊を前面に出しては党勢がジリ貧になるから。平素の主義主張を見れば、綱領が単なる「お題目」であることは明らか。
「確かな野党」というのは手前ミソに過ぎるが、主義主張の一貫性においては「確かな野党」であるに違いない。自らの脳内さえ不一致の小沢・鳩山らは共産党の爪の垢でも飲んだらどうか?
勿論、共産主義が暴力革命を前提にしている事も知っていましたが、革命達成までに自分達の隣人である多くの一般国民の命が犠牲に成ることや、ソ連や、シナと言った共産主義の先達国が、昔日本にどんなに酷い仕打ちをしたかを、満州からの引揚者である親から聞いて知っていたので、日本人がソ連の手先になって国の転覆を謀る企てに参加しているなんて、私にとって「あり得ない」事だったのです。
その宮本が、同じく独裁者である池田と手打ちしていたなんて、初めて知りました。
記事を有り難うアネモネさん。
宮本顕治が死んだから、今更、何かが変わるわけでも無さそうです、彼の党への影響力が無くなっていたのではなく、共産党の社会への影響力が皆無に成りつつあるからです、日本共産党はそのアイデンティティを根本から変えぬ限り、「恐竜扱い」は避けられないでしょう。
共産主義運動は、億単位の犠牲者を出して全て失敗に終わったのだ。政治思想の破綻は、通常政党の存在理由の破綻をも意味する。
少しでも反省力のある人間にとっては、耐えられない自体だ。それなのに、宮本顕治は平気を装った。権力亡者の権化と成っていたのだろう。
政治思想の破綻が実証されている日本共産党は、もはや新たな党員獲得は不可能だ。このジリ貧政党に残された思想は「反日」「反ご皇室」しかない。
政党は、国民の利益を代弁する装置だ。国民に不利益をもたらす反日が本来政党に成れる訳が無い。もともと日本マスゴミの作った特殊言語空間の中でのみ存立可能で在ったのだ。
しかしもはや、ネット世代は、そのような言語空間に縛られはしない。
ネット世代は、反日が、国民にとっての災厄以外の何物でもないことを知っている。宮顕の死より前に、日本共産党は、既に死んでいる。
今、民主党。
『敗北の文学』はちょっと興味を引きます。でも肝心の思想敗北に気が付かなかったのは評論家としてアウトじゃないかと思います。
>神谷晃良さま
伊勢神宮は「お木曳」だそうで、参拝者も多かったのでは…共産党員の死生観はホントの所、どうなんでしょうか。聞いてみたい。
>梅昆布茶さま
統一教会のエピソードは背景に深いテーマ性があるように思えます。創設メンバーにはそれなりの人物がいたのでしょうね。
>特亜消尽さま
確かに手ぐすね引いて待っている元党員が多そうです。
>風来坊さま
なるほど、創設以来のトップの少なさは政党の性格を素直に表現していますね。野坂といい超長寿なのは偶然にしても不思議です。>ナポレオン・ソロさま
創共(共創)協定は代々木の本性を探るうえで特筆すべき事件です。ただ、双方カルトなので情報流出が少ないのが難点ですね。
代々木全盛期は想像も付きませんが林房雄らの世代にとっては強敵だったようです。批判は今と比べ痛烈なものがあります。
>うらら様
思想敗北後に中朝と連携を深めたのは反日ファシズムを理解する鍵になりそうです。改めて考えたいテーマのひとつですね。
>名無しの経営者さま
ご皇族を脅かす存在である限り、代々木を一切評価できません。仰る通り、元議長の前に政党自体が壊死していと思います。
>宿屋飯盛さま
最終的な評価は部外者には判りかねますが「教祖的な存在」とは違ったようで、将来的に第転換はあり得るのかも知れません。
>とおる様
在日だったり同和だったり結局は利権の奪い合いです。
>幽谷の名無し様
往年は大物として語られていましたが、晩年は寂しい限りだったようです。もう代々木がモンスターを産み出すことはないでしょう。
「確かな野党」の「確かな」とは何を指しているのか?節操も無しに金ちゃんや中国とよりをも同窓としたりする「売国政党としての確かさ」でしょう。「悪魔の飽食」やら「南京プラトーン」といった反日便所本の大本は赤旗が発信源でしたから。
50年分裂や新左翼方面まで手を出すとキリがないので、ミヤケンと32テーゼに沿って、日共を俯瞰するのも、「日本的」マルキシズムの理解に適確と、一読、得心いたしました。
ただ、貴兄と異なり、小生は日共、乃至、特にミヤケンにおいて定式化された「日本的」マルキストの本質は、「売国・反日」とは対極に、権威主義的なナショナリズムの奇形的摂取にあるかとも愚考します。
文革期中共との暴力的対峙、解同浅田派との敵対、総連との確執などなど、今日において民族派にすら共有され得るであろう政治姿勢が、ミヤケン日共において先験されていた事実は、歴史の皮肉と申せましょう。