2階のスナイパーと安重根…ロシアが消えた反日史観
真犯人は駅舎2階から伊藤公を狙撃した…安重根事件につきまとう弾痕の謎。そして、浮かび上がるロシアの影。凶行の舞台は、複雑怪奇なアジア情勢の縮図でもあった。
「真の凶行担当者は、安重根の成功と共に逃亡したるものならんか。今、浦塩方面の消息に通ずる者の言ふ処に照し凶行首謀者及び凶行の任に当たりたる疑ある者を挙げれば、左の数人なるべきか」
韓国統監・曾禰荒助(そね あらすけ)から桂太郎首相に送られた機密電文には、そう記されていた。日付は明治42年(1909年)11月7日。伊藤博文公爵が凶弾に倒れてから、11日後にあたる。
浦塩とは、ロシアのウラジオストク。そこを中心に情報収集をした結果、伊藤公暗殺の関与が疑われる朝鮮人25人が浮かび上がったという。共犯者ではなく、曾禰統監は「真の凶行担当者」と表現している。
▼ハルピン駅に降り立つ伊藤公爵
伊藤公を殺めた真犯人は安重根ではなかった…JFK暗殺の異説にも似たミステリー。「別に居た真犯人説」が世に出たのは、事件発生から30年が過ぎた頃だった。
キーマンは、元貴族院議員・室田義文(よしふみ)だ。明治42年10月26日の満州ハルピン駅。伊藤公から約3㍍の至近距離で、自らも被弾した人物は、こう明かした。
「伊藤公の傷あとを調べると、弾丸はいずれも右肩から左下へ向っている。もし、安重根が撃った弾ならば、下から上へ走ってゆかねばならない」(大野芳著『伊藤博文暗殺事件~闇に葬られた真犯人』新潮社13頁)
史実を覆す衝撃的な証言だ。銃声を聞いた直後、賊がロシア兵の股ぐらから銃を突き出しているのを室田は目撃した。他の複数の目撃証言からも安重根が低い位置から凶弾を放ったことは確かだ。
▼適当に再現した記念館の模型(産経)
「上から下に向っている弾道を見ると、これはどうしてもプラットホームの上の食堂あたりから撃ったものと想像される」
満州北部の分岐点ハルピン駅は、1950年代末に改装された。今は事件当時と様変わりしているが、駅舎に2階があったことは、事件直後のロシア人記者のリポートでも明らかだ。
「停車場の建築は二階にて室数すこぶる多く、いずれの室にも大形の窓を穿ちたれば兇徒なんぞが紛れ入りて潜み居るにも屈竟なれば又…」(前掲書363頁)
▼1940年頃の満州国ハルピン駅
数多い部屋の大きな窓からホームも見渡せ、テロリストが狙うには絶好のポイントだと指摘する。「別に居た真犯人」は、2階から狙撃し、混乱の中、逃亡を果たしのか…
【装弾数7発で弾痕13ヵ所の謎】
「弾丸を調べてみるとすべて十三連発の騎馬銃のもので、蔵相ココフツオフ伯があとで、その前夜騎馬銃をもった韓国人を認めたといってるのも思い合わせると、安重根のほか意外のところに別の犯人がいるのではないだろうか」(前掲書14頁)
室田義文は、伊藤公に致命傷を与えた銃弾はフランス騎兵銃のものだったと断言する。事件直後の特別列車と移送先で、室田は医師の処置に立ち会った数少ない人物の一人だ。
▼犯行現場示すハルピン駅のマーク
伊藤公が浴びた凶弾は3発。盲管だった2発は、息を引き取った為、遺体を傷つけないよう体内に残したという。弾の軌道は室田の見立てとほぼ同じだったが、診断書などに銃弾の種類は記載されていない。
都内の憲政記念館に暗殺事件の銃弾1発が秘蔵されている。満鉄理事・田中清次郎の足首を貫き、靴の中に残っていたものだ。『伊藤博文暗殺事件』の著者・大野芳氏は、唯一現存する物証の鑑定を試みた。
▼安重根の凶弾(憲政記念館所蔵)
鑑定に当たったのは、銃器研究の第1人者・床井雅美氏。結果は「ベルギー製7.62㍉口径FNブローニングM1900から発射された可能性が高い」と出た。つまり、安重根が所持していた銃と同じだ。
騎兵銃が使われたことを示す物証はない。だが、伊藤公が浴びた3発の他に、室田ら随行員5人は計10ヵ所を被弾していた。衣服を貫通した弾が当たった可能性を含めても、被害が多過ぎる。
▼ベルギーFN社製ブローニングM1900(wiki)
安重根が握っていたブローニングは装弾数7発で、残弾が1発あった。最大6発の凶弾で、13ヵ所もの銃痕は説明がつかない。安重根以外に、凶弾を密かに放った者が居た疑いは濃厚だ。そして、このブローニングが事件の奥深い背景を物語る。
後に共犯として拘束された朝鮮人が所持していたブローニングとシリアルNo.が近かったのだ。凶器の銃は、一括で大量購入されたものだった。
そこから、ロシア特務機関の影が浮かび上がる。
【朝鮮人組織はロシアの鉄砲玉】
安重根事件とは概ね、義憤に駆られた朝鮮人による初代統監・伊藤博文公爵の暗殺と解説される。だが、この「別に居た真犯人」説を足掛かりに全体を見詰め直すと、違った背景が見えてくる。
安重根を現行犯逮捕し、共犯の容疑者8人を拘束したのはロシア官憲で、取り調べを担当した検察官もロシア人だ。当時、満州北部の要所ハルピンは、帝政ロシアの租借地だったのである。
▼凶行当時の満州エリア地図(前掲書より)
伊藤公を迎えた駅ホームにはロシアの儀仗兵が並んでいた。線路も鉄道駅も街もロシアの所有物だった。一方、安重根が移送された旅順高等法院で待ち構えていたのは、日本の法務官たちだ。
暗殺事件は、日露戦争の我が国大勝利から4年後に発生した。清の衰亡に合わせて南侵したロシアは、無惨な大敗北のあとも満州北部で権益を握っていた。これは当時の複雑怪奇なアジア情勢を象徴する。
▼ウラジオストクに建つ安重根碑(2002年)
ロシアが南下のベースにしたのは、1860年に清から獲得した沿海州のウラジオストクだ。軍港となった街には満州人に加えて、朝鮮人の出稼ぎも殺到。20世紀初めには大きな都市と化していた。
ウラジオストクの朝鮮人町で暮らしていたのが、安重根だった。外国で必ず徒党を組む朝鮮人は、ここでも「韓民会」という組織を設立。それが、ロシア特務機関の強い影響下にあった。
▼叩き壊された安重根碑(2013年)
暗躍したのは現地で新聞を発行していたロシア人ミハイロフ。この自称・退役軍人が「韓民会」と密接な関係にあった。また武器の横流しを行なっていた事などから、暗殺計画をセットした人物と推測される。
大野芳の大作『伊藤博文暗殺事件』は、事件後に謀殺された朝鮮人・楊成春なる男を2階の狙撃手・致命傷を与えた真犯人としてクローズアップ。確証は得られないが、核心に迫る。
一方、日本側も無用な混乱を怖れ、安重根の単独犯行・事件解決で幕引きを計った。複数犯を示唆する証言・記録の削除。安重根の伝説が生まれた背景は、当時のデリケートな満州情勢があったのだ。
【朝鮮捏造史の押しつけ騒ぎ】
「政府としても、国民としても容認できない」
反日火病の症状悪化が著しい南鮮・外交通商部の尹炳世(ユン・ビョンセ)は11月20日、議会で吠えた。菅官房長官の真っ当な発言に対し、猛り狂っているのだ。
▼ビースト・モードの尹炳世11月20日(聯合)
「我が国は、安重根は犯罪者であると韓国政府にこれまでも伝えてきた。このような動きは日韓関係のためにはならないのではないか」
安重根は、東洋の偉人・伊藤博文公を暗殺した無慈悲なテロ犯罪者だ。前述した通り、この不逞鮮人を現行犯逮捕し、尋問したのはロシアの官憲と検察である。
▼東洋の偉人・伊藤博文公爵
南鮮政府が、ウラジオストクで腐っていた男を「民族の英雄」に祭り上げるのは勝手だ。しかし、それを自国のみならず、国際社会が認める「歴史」と言い張る態度は、不遜極まりない。
単純に史実と歴史認識の違いが理解できないのだ。菅官房長官は、南鮮側の火病爆発ぶりを受けて「随分と過剰な反応だな」と苦笑したが、それは多くの日本国民の捉え方と同じだろう。
▼東洋の下手人・安重根
目に余る朝鮮捏造史の押しつけ、押し売りだ。その一方、日本国内にも朝鮮側が叫ぶ「歴史」に同調する勢力が存在するから、話がややこしくなる。反日メディア2軍の急先鋒は、こう訴える。
「二十世紀初頭の独立運動家で伊藤博文を暗殺した安重根を、菅義偉官房長官が『犯罪者』と発言して、韓国側の反発を招いている。歴史の評価は難しいが、関係修復を目指すのなら言動には慎重を期すべきだ」
参照:中日社説11月22日『冷え込む日韓 歴史は慎重に語りたい』
日清戦争の我が国大勝利で、宗主国を失った朝鮮国家が、半万年属国の地位から脱して独立したのが、暗殺事件の12年前だった。そして我が国が半島を保護下に置く前のテロである。
▼ソウル市内の安重根記念館2010年
排日運動であれば不適切ではないが、悲願の独立を果たした国家に独立運動家がいたという珍妙な設定だ。朝鮮捏造史に従って、暗殺事件を我が国と半島国家の2国間関係に限定することから間違いが起こる。
19世紀末から20世紀初頭、アジア北部は、遅れてきた列強・ロシアの脅威に晒されていた。それを無視し、日本の一方的な大陸進出と説明するのが、シナ・朝鮮の反日史観であり、我が国の自虐史観だ。
▼連合艦隊旗艦・戦艦「三笠」(横須賀市HP)
安重根の暮らしていたウラジオストクを一例に挙げれば、栄えるロシアの軍港に出稼ぎに行ったのが朝鮮人、命を賭して脅威を打破したのが日本人だった。絶望的な違いである。
【安重根の「中国」痛烈批判】
「テロリストによる破壊活動を称賛することになる」
日本の外交筋は、安重根碑のハルピン設置に懐疑的だ。今年6月にパク・クネが習近平に懇願した際も「まさか設置されないだろう」との楽観論が支配的だった。
▼宗主国を表敬するクネ6月
その後、音沙汰がないまま5ヵ月が過ぎた11月18日、パク・クネが中共側に計画進展への謝意を口にした。相手が党内序列の低い楊潔篪であっても、侮れない。
南鮮は以前からハルピンだんがに安重根記念館の開設を懇願していた。中共側は突っぱねていたが、2007年に朝鮮民族芸術館の1コーナーに「記念館」を設置、入り口には銅像が立てられた。
▼現在の旧満州ハルピン駅前(産経)
この「記念館」はサムスンやアシアナ航空がスポンサーで、南鮮観光客目当ての施設だ。地元民が訪れることは稀で、駅前広場のように人目につく場所ではない。これが楽観論の根拠のひとつでもある。
だが、反日“歴史”攻勢で煮詰まっているのは、パク政権だけではない。習近平指導部も「打つ手」に欠くのだ。ハルピン駅頭にテロを讃える石碑が建つ恐れは高い。
▼ハルピン駅頭の金正日2010年8月(共同)
民族の英雄と言いながら、北朝鮮で安重根は無名の存在だ。両班の出身という問題以前に、金日成伝説とバッティングする。ところが没後100周年を契機に、平壌は安重根で南と連携する姿勢も打ち出し始めた。
北朝鮮が機嫌を損ねないのであれば、習近平指導部が像の設置に足踏みする理由はない。ロシアの支配地域で朝鮮人が日本政治家を暗殺した事件。当時も今も、現地の満州人とは無関係だ。
▼ソウルで発狂する不逞鮮人11月22日(共同)
南鮮側はハルピンの石碑に、朝鮮文字と中文で、安重根が遺した『東洋平和論』の一節を刻み入れたいという。実に、面白い。そのアイデアを採用しよう。
以下に掲げる『東洋平和論』冒頭のフレーズを熱烈に推薦する。アジアの新星・日本と没落シナを比較考察した一文。大野芳氏の手による漢文からの現代語訳である。
「清国は、日本に比べて数十倍も物が豊富で国土も広大であるにもかかわらず、なぜ、このような小国に破れてしまったのか。
むかしから清国人は、自ら中華大国と称して、外国人を野蛮人と呼んで奢れること甚だしかった。いわんや権力者やその親族は、国権、臣民をもてあそんで世間の憎しみを買ったが、これを知らず、このような恥辱に遭遇したのであった」(前掲書397頁)
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります
↓

参考文献:
大野芳著『伊藤博文暗殺事件』新潮社H15年刊
参考記事:
□産経新聞11月19日『官房長官「安重根は犯罪者」 石碑建立計画を批判 韓国反発には「過剰反応だ」』
□ZAKZAK11月20日『安重根碑計画で日韓応酬 識者からは“逆ギレ”韓国に「制裁措置を」の声も』
□ZAKZAK11月19日『中韓が“反日結託”! ハルビン駅に「安重根碑」建立か 実際には困難?』
□日経新聞11月20日『安重根「死刑判決の人物」 世耕氏、韓国外相に反論』
□産経新聞11月19日『「安重根の記念碑建立進んでる」 朴大統領、中国に謝意』
□東亜日報11月20日『接近する韓中に反発する日本、安重根義士を取り巻く3国の新情勢』
□産経新聞6月28日『韓国大統領 伊藤博文暗殺の安重根の記念碑設置への協力を要請 「尊敬すべき人物」』
□産経新聞7月20日『中国どう出る 安重根の記念碑設置問題 韓国側は躍起』
「真の凶行担当者は、安重根の成功と共に逃亡したるものならんか。今、浦塩方面の消息に通ずる者の言ふ処に照し凶行首謀者及び凶行の任に当たりたる疑ある者を挙げれば、左の数人なるべきか」
韓国統監・曾禰荒助(そね あらすけ)から桂太郎首相に送られた機密電文には、そう記されていた。日付は明治42年(1909年)11月7日。伊藤博文公爵が凶弾に倒れてから、11日後にあたる。
浦塩とは、ロシアのウラジオストク。そこを中心に情報収集をした結果、伊藤公暗殺の関与が疑われる朝鮮人25人が浮かび上がったという。共犯者ではなく、曾禰統監は「真の凶行担当者」と表現している。
▼ハルピン駅に降り立つ伊藤公爵
伊藤公を殺めた真犯人は安重根ではなかった…JFK暗殺の異説にも似たミステリー。「別に居た真犯人説」が世に出たのは、事件発生から30年が過ぎた頃だった。
キーマンは、元貴族院議員・室田義文(よしふみ)だ。明治42年10月26日の満州ハルピン駅。伊藤公から約3㍍の至近距離で、自らも被弾した人物は、こう明かした。
「伊藤公の傷あとを調べると、弾丸はいずれも右肩から左下へ向っている。もし、安重根が撃った弾ならば、下から上へ走ってゆかねばならない」(大野芳著『伊藤博文暗殺事件~闇に葬られた真犯人』新潮社13頁)
史実を覆す衝撃的な証言だ。銃声を聞いた直後、賊がロシア兵の股ぐらから銃を突き出しているのを室田は目撃した。他の複数の目撃証言からも安重根が低い位置から凶弾を放ったことは確かだ。
▼適当に再現した記念館の模型(産経)
「上から下に向っている弾道を見ると、これはどうしてもプラットホームの上の食堂あたりから撃ったものと想像される」
満州北部の分岐点ハルピン駅は、1950年代末に改装された。今は事件当時と様変わりしているが、駅舎に2階があったことは、事件直後のロシア人記者のリポートでも明らかだ。
「停車場の建築は二階にて室数すこぶる多く、いずれの室にも大形の窓を穿ちたれば兇徒なんぞが紛れ入りて潜み居るにも屈竟なれば又…」(前掲書363頁)
▼1940年頃の満州国ハルピン駅
数多い部屋の大きな窓からホームも見渡せ、テロリストが狙うには絶好のポイントだと指摘する。「別に居た真犯人」は、2階から狙撃し、混乱の中、逃亡を果たしのか…
【装弾数7発で弾痕13ヵ所の謎】
「弾丸を調べてみるとすべて十三連発の騎馬銃のもので、蔵相ココフツオフ伯があとで、その前夜騎馬銃をもった韓国人を認めたといってるのも思い合わせると、安重根のほか意外のところに別の犯人がいるのではないだろうか」(前掲書14頁)
室田義文は、伊藤公に致命傷を与えた銃弾はフランス騎兵銃のものだったと断言する。事件直後の特別列車と移送先で、室田は医師の処置に立ち会った数少ない人物の一人だ。
▼犯行現場示すハルピン駅のマーク
伊藤公が浴びた凶弾は3発。盲管だった2発は、息を引き取った為、遺体を傷つけないよう体内に残したという。弾の軌道は室田の見立てとほぼ同じだったが、診断書などに銃弾の種類は記載されていない。
都内の憲政記念館に暗殺事件の銃弾1発が秘蔵されている。満鉄理事・田中清次郎の足首を貫き、靴の中に残っていたものだ。『伊藤博文暗殺事件』の著者・大野芳氏は、唯一現存する物証の鑑定を試みた。
▼安重根の凶弾(憲政記念館所蔵)
鑑定に当たったのは、銃器研究の第1人者・床井雅美氏。結果は「ベルギー製7.62㍉口径FNブローニングM1900から発射された可能性が高い」と出た。つまり、安重根が所持していた銃と同じだ。
騎兵銃が使われたことを示す物証はない。だが、伊藤公が浴びた3発の他に、室田ら随行員5人は計10ヵ所を被弾していた。衣服を貫通した弾が当たった可能性を含めても、被害が多過ぎる。
▼ベルギーFN社製ブローニングM1900(wiki)
安重根が握っていたブローニングは装弾数7発で、残弾が1発あった。最大6発の凶弾で、13ヵ所もの銃痕は説明がつかない。安重根以外に、凶弾を密かに放った者が居た疑いは濃厚だ。そして、このブローニングが事件の奥深い背景を物語る。
後に共犯として拘束された朝鮮人が所持していたブローニングとシリアルNo.が近かったのだ。凶器の銃は、一括で大量購入されたものだった。
そこから、ロシア特務機関の影が浮かび上がる。
【朝鮮人組織はロシアの鉄砲玉】
安重根事件とは概ね、義憤に駆られた朝鮮人による初代統監・伊藤博文公爵の暗殺と解説される。だが、この「別に居た真犯人」説を足掛かりに全体を見詰め直すと、違った背景が見えてくる。
安重根を現行犯逮捕し、共犯の容疑者8人を拘束したのはロシア官憲で、取り調べを担当した検察官もロシア人だ。当時、満州北部の要所ハルピンは、帝政ロシアの租借地だったのである。
▼凶行当時の満州エリア地図(前掲書より)
伊藤公を迎えた駅ホームにはロシアの儀仗兵が並んでいた。線路も鉄道駅も街もロシアの所有物だった。一方、安重根が移送された旅順高等法院で待ち構えていたのは、日本の法務官たちだ。
暗殺事件は、日露戦争の我が国大勝利から4年後に発生した。清の衰亡に合わせて南侵したロシアは、無惨な大敗北のあとも満州北部で権益を握っていた。これは当時の複雑怪奇なアジア情勢を象徴する。
▼ウラジオストクに建つ安重根碑(2002年)
ロシアが南下のベースにしたのは、1860年に清から獲得した沿海州のウラジオストクだ。軍港となった街には満州人に加えて、朝鮮人の出稼ぎも殺到。20世紀初めには大きな都市と化していた。
ウラジオストクの朝鮮人町で暮らしていたのが、安重根だった。外国で必ず徒党を組む朝鮮人は、ここでも「韓民会」という組織を設立。それが、ロシア特務機関の強い影響下にあった。
▼叩き壊された安重根碑(2013年)
暗躍したのは現地で新聞を発行していたロシア人ミハイロフ。この自称・退役軍人が「韓民会」と密接な関係にあった。また武器の横流しを行なっていた事などから、暗殺計画をセットした人物と推測される。
大野芳の大作『伊藤博文暗殺事件』は、事件後に謀殺された朝鮮人・楊成春なる男を2階の狙撃手・致命傷を与えた真犯人としてクローズアップ。確証は得られないが、核心に迫る。
一方、日本側も無用な混乱を怖れ、安重根の単独犯行・事件解決で幕引きを計った。複数犯を示唆する証言・記録の削除。安重根の伝説が生まれた背景は、当時のデリケートな満州情勢があったのだ。
【朝鮮捏造史の押しつけ騒ぎ】
「政府としても、国民としても容認できない」
反日火病の症状悪化が著しい南鮮・外交通商部の尹炳世(ユン・ビョンセ)は11月20日、議会で吠えた。菅官房長官の真っ当な発言に対し、猛り狂っているのだ。
▼ビースト・モードの尹炳世11月20日(聯合)
「我が国は、安重根は犯罪者であると韓国政府にこれまでも伝えてきた。このような動きは日韓関係のためにはならないのではないか」
安重根は、東洋の偉人・伊藤博文公を暗殺した無慈悲なテロ犯罪者だ。前述した通り、この不逞鮮人を現行犯逮捕し、尋問したのはロシアの官憲と検察である。
▼東洋の偉人・伊藤博文公爵
南鮮政府が、ウラジオストクで腐っていた男を「民族の英雄」に祭り上げるのは勝手だ。しかし、それを自国のみならず、国際社会が認める「歴史」と言い張る態度は、不遜極まりない。
単純に史実と歴史認識の違いが理解できないのだ。菅官房長官は、南鮮側の火病爆発ぶりを受けて「随分と過剰な反応だな」と苦笑したが、それは多くの日本国民の捉え方と同じだろう。
▼東洋の下手人・安重根
目に余る朝鮮捏造史の押しつけ、押し売りだ。その一方、日本国内にも朝鮮側が叫ぶ「歴史」に同調する勢力が存在するから、話がややこしくなる。反日メディア2軍の急先鋒は、こう訴える。
「二十世紀初頭の独立運動家で伊藤博文を暗殺した安重根を、菅義偉官房長官が『犯罪者』と発言して、韓国側の反発を招いている。歴史の評価は難しいが、関係修復を目指すのなら言動には慎重を期すべきだ」
参照:中日社説11月22日『冷え込む日韓 歴史は慎重に語りたい』
日清戦争の我が国大勝利で、宗主国を失った朝鮮国家が、半万年属国の地位から脱して独立したのが、暗殺事件の12年前だった。そして我が国が半島を保護下に置く前のテロである。
▼ソウル市内の安重根記念館2010年
排日運動であれば不適切ではないが、悲願の独立を果たした国家に独立運動家がいたという珍妙な設定だ。朝鮮捏造史に従って、暗殺事件を我が国と半島国家の2国間関係に限定することから間違いが起こる。
19世紀末から20世紀初頭、アジア北部は、遅れてきた列強・ロシアの脅威に晒されていた。それを無視し、日本の一方的な大陸進出と説明するのが、シナ・朝鮮の反日史観であり、我が国の自虐史観だ。
▼連合艦隊旗艦・戦艦「三笠」(横須賀市HP)
安重根の暮らしていたウラジオストクを一例に挙げれば、栄えるロシアの軍港に出稼ぎに行ったのが朝鮮人、命を賭して脅威を打破したのが日本人だった。絶望的な違いである。
【安重根の「中国」痛烈批判】
「テロリストによる破壊活動を称賛することになる」
日本の外交筋は、安重根碑のハルピン設置に懐疑的だ。今年6月にパク・クネが習近平に懇願した際も「まさか設置されないだろう」との楽観論が支配的だった。
▼宗主国を表敬するクネ6月
その後、音沙汰がないまま5ヵ月が過ぎた11月18日、パク・クネが中共側に計画進展への謝意を口にした。相手が党内序列の低い楊潔篪であっても、侮れない。
南鮮は以前からハルピンだんがに安重根記念館の開設を懇願していた。中共側は突っぱねていたが、2007年に朝鮮民族芸術館の1コーナーに「記念館」を設置、入り口には銅像が立てられた。
▼現在の旧満州ハルピン駅前(産経)
この「記念館」はサムスンやアシアナ航空がスポンサーで、南鮮観光客目当ての施設だ。地元民が訪れることは稀で、駅前広場のように人目につく場所ではない。これが楽観論の根拠のひとつでもある。
だが、反日“歴史”攻勢で煮詰まっているのは、パク政権だけではない。習近平指導部も「打つ手」に欠くのだ。ハルピン駅頭にテロを讃える石碑が建つ恐れは高い。
▼ハルピン駅頭の金正日2010年8月(共同)
民族の英雄と言いながら、北朝鮮で安重根は無名の存在だ。両班の出身という問題以前に、金日成伝説とバッティングする。ところが没後100周年を契機に、平壌は安重根で南と連携する姿勢も打ち出し始めた。
北朝鮮が機嫌を損ねないのであれば、習近平指導部が像の設置に足踏みする理由はない。ロシアの支配地域で朝鮮人が日本政治家を暗殺した事件。当時も今も、現地の満州人とは無関係だ。
▼ソウルで発狂する不逞鮮人11月22日(共同)
南鮮側はハルピンの石碑に、朝鮮文字と中文で、安重根が遺した『東洋平和論』の一節を刻み入れたいという。実に、面白い。そのアイデアを採用しよう。
以下に掲げる『東洋平和論』冒頭のフレーズを熱烈に推薦する。アジアの新星・日本と没落シナを比較考察した一文。大野芳氏の手による漢文からの現代語訳である。
「清国は、日本に比べて数十倍も物が豊富で国土も広大であるにもかかわらず、なぜ、このような小国に破れてしまったのか。
むかしから清国人は、自ら中華大国と称して、外国人を野蛮人と呼んで奢れること甚だしかった。いわんや権力者やその親族は、国権、臣民をもてあそんで世間の憎しみを買ったが、これを知らず、このような恥辱に遭遇したのであった」(前掲書397頁)
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます
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↓

参考文献:
大野芳著『伊藤博文暗殺事件』新潮社H15年刊
参考記事:
□産経新聞11月19日『官房長官「安重根は犯罪者」 石碑建立計画を批判 韓国反発には「過剰反応だ」』
□ZAKZAK11月20日『安重根碑計画で日韓応酬 識者からは“逆ギレ”韓国に「制裁措置を」の声も』
□ZAKZAK11月19日『中韓が“反日結託”! ハルビン駅に「安重根碑」建立か 実際には困難?』
□日経新聞11月20日『安重根「死刑判決の人物」 世耕氏、韓国外相に反論』
□産経新聞11月19日『「安重根の記念碑建立進んでる」 朴大統領、中国に謝意』
□東亜日報11月20日『接近する韓中に反発する日本、安重根義士を取り巻く3国の新情勢』
□産経新聞6月28日『韓国大統領 伊藤博文暗殺の安重根の記念碑設置への協力を要請 「尊敬すべき人物」』
□産経新聞7月20日『中国どう出る 安重根の記念碑設置問題 韓国側は躍起』
この記事へのコメント
アネモネさんが「朝鮮捏造史に従って、暗殺事件を我が国と半島国家の2国間関係に限定することから間違いが起こる」と指摘されているとおりである。
要するにロシア抜きには語れない当時の極東情勢の中での暗殺事件としてとらえない限り事件の真相には迫れない。
上に縷々説明されているように「上から下に向かっている弾道」のことをはじめとして、安重根犯人説には説得力がない。
「当時から疑われていたロシアの仕業だとすると、少々複雑な国債問題になる。安重根がピストルを撃ったことは確かだから、彼の犯行にしておいたほうが、日本政府としては都合がよかったのかもしれない」(『歴史通・2013年9月号』)との渡部昇一教授の説あたりが真相に一番近いのでは?
安重根の石碑を中国に作る作らないも中国の勝手。
日中関係が悪い中、日本が「尖閣諸島の棚上げ」をしない中、友好国韓国が求めているのにやらないわけがない。
抗日記念館を沢山作ったぐらいなのに。
日本は中国に作るなと言うのか?
日本は韓国に作るなと言うのか?
韓国が日本にひどい目にあったという歴史認識なのだから、安重根が英雄なのは当たり前、日本の言うことを聞くわけがない。
安重根の石碑建立阻止はできない。
韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が世界の首脳相手に日本の“慰安婦”をアピールしまくっている。そもそも韓国こそ世界一の売春大国で一説にはその数27万人。そんな国に存在しもしない「性奴隷」などと言われたくない。
そこまで言われると日本人もさすがに我慢の限界。『週刊新潮』(11月28日霜降月増大号)がその気分を的確に捉えて3本立て大特集。タイトルが「大新聞が報じない『韓国』の馬脚」。
で、どんな「馬脚」かというと1本目が「『朴槿恵大統領』の父は『米軍慰安婦』の管理者だった!」。
1977年当時、〈「全国62カ所の“基地村”に9935人の売春婦が生活」〉。
彼女たちにお墨付きを与える文書に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が署名していたという。
これこそまさに国家公認の「従軍慰安婦」ではないか。
聯合ニュース 11月20日(水)19時32分配信
【ソウル聯合ニュース】韓国政府機関の「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者支援委員会」は20日、日本による植民地時代に北海道・猿払村の浅芽野飛行場の工事現場へ強制動員された犠牲者を追悼する碑石を建設すると明らかにした。除幕式は猿払村で26日に行われる。
日本の愛国者たちが追悼碑が建立されると報じられた北海道の猿払村に多数の抗議電話や抗議FAXなどをしたようだ。
抗議をした人たちに大感謝だ!
>猿払村関係者は同日午前、役場で緊急会議を開き、「26日に開く予定の追悼碑除幕式を右翼団体の抗議で延期しない」という結論を下した。
>北海道フォーラムは追悼碑建立に向けて、昨年から猿払村を数十回訪れ、村の住民の同意を求めてきた。
2013年11月1日現在、猿払村の人口は2,854人で世帯数は1,232世帯だが、いったい何人の住民の同意を得ていたのか詳細を公表すべきだ。
朝鮮人追悼碑、除幕式が中止に 北海道・猿払村に設置申請なく
11/23 09:58、北海道新聞
ロシアが伊藤公暗殺の黒幕、と言うのは初耳です。
しかし自分は、黒幕は長州の山県ではないかと思っています。
満州利権は長州閥のドル箱ですから。
あと、ロシアは極東よりバルカンの方をはるかに重要視していました。
しかし、伊藤公暗殺で一番意味不明なのが安重根の十番目の犯行理由です。
「伊藤は孝明天皇を暗殺したから」って…。
参考文献は、けっこうなボリュームなので、当たり前ですけど、かなり端折りました。ロシア黒幕説は、動機について込み入った解釈が必要になります。また張作霖事件に比べ、計画が場当たり的にも。この辺りは、急遽決まった訪満が影響しているのか…
山縣有朋を真の黒幕とする上垣外氏の説(『暗殺・伊藤博文』ちくま新書)もあるようですね。内田良平とかが絡んできて、興味深い内容のようです。
さらに刑執行までの間、大アジア主義思想から安重根を英雄視する動きもあり、それが獄中での執筆活動を助ける背景になった模様。安重根を「英雄」にしたのは「当時の日本右翼だった」という捉え方も出来ます。