『日本人よ ありがとう』…南方特別留学生が愛した日本
その日、少年は祖国が400年の眠りから醒める予感に震えた。日本に憧れ、学んだ少年は、やがて政治家になった。戦後の交流再開。しかし、そこに、あの美しい日本人はいなかった…
マレーから来たノンチック青年は、昭和20年8月15日を東京で迎えた。宿舎のラジオで終戦の詔勅を聴き、周囲の日本人と同じ悲しみを噛みしめた。そして、こう直感したという。
「国敗れて山河あり。日本に天皇陛下あり。勇気と勤勉な日本人あり。日本は決して滅びない」
敗戦にあたって、ノンチック青年の胸に去来したものは、大東亜戦争の劈頭、日本軍がマレー人を驚かせ、心に植え付けてくれたアジア解放の勇姿だった。青年は悲しみに暮れながらも決意する。
「マラヤの独立は、これからが本番である。日本はアジアのために戦い疲れて敗れたが、これからは我々マレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」
▼昭和20年8月15日の宮城前
その決心の通り、青年は祖国独立の為の戦場に赴き、戦い抜いた。日本軍がマレー半島から去って、何年が経った頃だったろうか。立派な紳士となったノンチック氏の元を1人の日本人が訪ねて来て、言った。
「日本軍はマレー人を虐殺したの違いない。その事実を調べに来たのだ」
教師だと名乗る日本人の言葉に、ノンチック氏は驚いた。そして、こう言い返した。
「日本軍はマレー人を1人も殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけです。そして日本の将兵も血を流しました」
日本から遥々やって来たというアカ教師が、その言葉にどう反応したのか、定かではない。一方、ノンチック氏は強い不安に駆られた。祖国の軍隊を悪く言う日本人は、決して特殊なケースではなかったのだ。
「どうしてこのように今の日本人は、自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようとしないで、悪いことばかりしていたような先入観を持ってしまったのでしょう。これは本当に残念なことです」
老境に差し掛かったノンチック氏はそう案じ、マレーシア在住の日本人の親友を頼った。自分が戦時中に体験したこと、そこで出会った素晴らしい日本人たちについて綴ってくれるよう頼んだのである。
そして、世に送られたのが、土生良樹氏著『日本人よ ありがとう』だった。発刊時期は、昭和から平成の御世に移り変わって間もなくの時代。それは、奇跡のような1冊だ。
【ASEAN裏面史の日本留学生】
「オマエが買った馬券は負けたのだ。オマエらアジア人が、われわれに勝てるわけがない」(前掲書146頁)
終戦から5ヵ月後、青年は出頭したGHQ英軍代表部で、激しく罵倒された。留学先を日本に選んだ者は、負け組だというのだ。当時、青年は東京大学に籍を置いていた。
マラヤから来た青年は、その名をラジャー・ダト・ノンチックと云った。「ラジャー」は、王族に対する敬称で、「ダト」は、マレーシア国家功労勲章の受章者であることを示す。
英国の植民地だったマレー半島。そこで家系を保ったエリート子弟には、英国に留学する選択肢もあったが、ラジャー・ノンチックは、極東の島国を目指した。1941年12月の出来事が運命を変えたのだ。
我が軍のコタバル上陸とタイ南部からの進撃をニュースで知ったラジャー・ノンチックは、ひどく興奮した。4世紀に及ぶ英国の植民地支配…その終わりを予感したのである。
開戦から半年後、昭南島に現地人エリートを養成する「興亜訓練所」が開校した。ラジャー・ノンチックは年齢制限に阻まれ、入学叶わなかったが、熱意が届き、1年半後、南方特別留学生に選抜される。
▼南方特別留学生1期生(昭和18年)
南方特別留学生は、後にASEAN各国の政治家・実業家となった者が多いことで知られる。広島留学中に被爆したブルネイのペンギラン・ユソフ初代首相が有名だ。
本書『日本人よ ありがとう』では、前半のハイライトとしてラジャー・ノンチックの留学記が綴られる。だが、他の関連書籍と違い、南方特別留学生の別の素顔も同時に説き明かされる。
「私が日本敗戦後のインドネシア独立戦争で、私の祖先の国であるスマトラの戦闘に参加したのも、あの本郷寮の同期生だったスマトラの七名が、独立軍の指揮官になっていたからです」(前掲書93頁)
▼本郷寮再訪したノンチック氏’87年
本郷寮とは都内・目黒にあった留学生用の宿舎だ。ラジャー・ノンチックを始め留学生の一部は、短期間ながら陸軍士官学校にも入学。そこでの人脈が更に1965年の反スカルノ・クーデター収拾にまで繋がる。
本書の後半は、GHQ経由で移送されたチャンギー監獄から脱出、インドネシア独立戦争、マレー半島での共産ゲリラ討伐…そして非常事態下のジャカルタに密使として潜入する姿も描かれる。
▼現座間市の陸士・留学生隊校舎
ASEANの生みの親の1人、マレーシアのアブドル・ラザク副首相は、昭南興亜訓練所の3期生だった。その影では、ラジャー・ノンチックら南方特別留学生OBが、実務者として協議を重ねていた。
一端ながら、ASEAN結成の裏面史が明かされていることも興味深い。
【美しい日本人は何処へ…】
陸軍士官学校でも学んだラジャー・ノンチックは、共産ゲリラ掃討作戦を指揮した後、軍人になる道を選ばなかった。県知事を経て、1959年、新設のMCS(国家計画庁)のトップに選出された。
政府に招いたアブドル・ラザク副首相は、我が軍が創設した昭南興亜訓練所の3期生。そして南方特別留学生の2期生でもあった。その頃の模様をラジャー・ノンチックは、こう語る。
「新国家マラヤ連邦の建国の基本策とその具体策は、当時、マレー人青年の日本グループによって進められたといっても決して過言ではありません。あの当時のMCS本部は、昭南、マラヤ両東亜訓練所と南方特別留学生の同窓会本部の雰囲気でした」(前掲書253頁)
▼連邦議員正装姿のノンチック氏
ラジャー・ノンチックは、1964年のマレーシア初の総選挙に出馬。多くの支持を集めて当選する。38歳の若さだった。その後、州議会議長、連邦上院議員を歴任し、1982年に政界から退く。
政治家引退後は、実業家として日本企業との合弁事業に奔走。川崎重工や東芝などを相手に創設した合弁会社は十数社にのぼる。しかし、日本企業との関わりの中で、違和感が膨らんでいった。
「私は日本人の素晴らしさは“思いやり”が豊かな民族であると思っていました。思いやりの根底には、大変残念なことですが、モノとカネが優先することが多くなっています。ポケットとポケットの付きあいからは何も遺りません」(前掲書299頁)
具体的に名指しして批判することはしなかった。けれども、戦後の日本人は、ラジャー・ノンチックに不安を抱かせたようだ。そこに、戦時中に出会った日本人の姿を見出すことが出来なかったのである。
▼福田首相迎えるノンチック氏'77年
「私たち南方特別留学生が教育を受けた頃の日本は、現在の日本とは比べることができないほど貧しい国でした。しかも、あの当時の日本は、全身傷だらけになって、アジアを西欧植民地から解放するための大東亜戦争を戦っておりました。
私たちはその貧しい戦時下の日本で『日本の素晴らしさ』を与えられたました。
あの当時の日本人は、心と心が触れ合う交わりをもって、アジア諸国に偉大な遺産を遺してくれました。すなわち四百年の永きにわたった植民地体制を打破し、アジアの青年たちに民族自決の戦いをとる決意と覚悟を与えてくれたのです。私たちは、日本の青年が命を捨て血を流して遺してくれた、尊い偉大な遺産を基にして祖国の独立とアセアンの結成を成し遂げたのです」(前掲書299-300頁)
ラジャー・ノンチックは、繰り返して、ポケットとポケットの付き合いからは将来何も残らないと警告する。戦後に出会った日本人は、ひどく彼を失望させる者が多かったようだ。
それでもラジャー・ノンチックは、マレー大の評議員として日本語学科を創設するなど後の「ルック・イースト」政策の下地を築く。そして1984年には日本政府から「勲二等瑞宝章」を叙勲された。
▼勲二等瑞宝章賜るノンチック氏
来日歴も多く、平成元年2月の大喪の礼にも参列している。本書が出版されたのも、同じ年だ。他界する5年前のことである。ラジャー・ノンチックには是非とも今の日本人に伝えたいメッセージがあった。
そのメッセージは、本書の序文に一篇の詩として残された。ネット上では以前からマイナーな人気を誇る詩だ。翻訳ではなく、戦中に学んだ日本語を駆使して創作したものである。
<序にかえて>(前掲書3~8頁)
かつて 日本人は
清らかで美しかった
かつて 日本人は
親切でこころ豊かだった
アジアの国の誰にでも
自分のことのように
一生懸命つくしてくれた
*
何千万人もの 人のなかには
少しは 変な人もいたし
おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけて
いばってばかりいる人だって
いなかったわけじゃない
*
でも その頃の日本人は
そんな少しの いやなことや
不愉快さを越えて
おおらかで まじめで
希望に満ちて明るかった
☆
戦後の日本人は
自分たち日本人のことを
悪者だと思い込まされた
学校でもジャーナリズムも
そうだとしか教えなかったから
まじめに
自分たちの祖父や先輩は
悪いことばかりした残酷無情な
ひどい人たちだったと 思っているようだ
*
だから アジアの国に行ったら
ひたすら ペコペコあやまって
私たちはそんなことはいたしませんと
言えばよいと思っている
*
そのくせ 経済力がついてきて
技術が向上してくると
自分の国や自分までが
えらいと思うようになってきて
うわべや 口先では
済まなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの
自分本位の えらそうな態度をする
そんな
今の日本人が心配だ
☆
本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは
今は いつも 歯がゆくて
くやしい思いがする
*
自分のことや
自分の会社の利益ばかり考えて
こせこせと
身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は
これが本当の日本人なのだろうか
*
自分たちでだけで 集まっては
自分たちだけの 楽しみや
ぜいたくに ふけりながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている
その国と 国民のことを
さげずんだ眼でみたり
バカにしたりする
☆
こんな ひとたちと
本当に仲良くしてゆけるだろうか
どうして
どうして日本人は
こんなになってしまったんだ
<詩>ラジャー・ダト・ノンチック
1989年4月 クアラルンプールにて
▼東京滞在中のノンチック夫妻’85年
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります
↓

**************
【side story】
8年前のエントリ内容を全面的に改訂しました。当時、「詩」を紹介したHPがリンク消失したほか、現在のネット上では出典を疑問視するようなコメントも散見されたり…
そのことから所蔵する初版本を引っ張り出して、写真入り
で実在を証明した次第です。戦後の企業人とコンタクトして失望したラジャー・ノンチックの思いに触れることで、一篇の詩に、より深味を与えることが出来れば幸いです。
また本書には、藤原岩市大佐の「F機関」も断片的に登場し、当時のマレー青年がどう受け止め、どう行動したのか記されていますが、永くなるので全面カット。以下のエントリでも触れていない部分があるので、少し残念かも。
関連エントリ:
H22年12月9日『その名はF機関:完全版…大東亜戦争の英雄・藤原岩市』
H18年12月27日『マレーの虎ハリマオ・谷豊の壮絶生涯(前編)』
H18年12月27日『マレーの虎ハリマオ・谷豊の壮絶生涯(後編)』
マレーから来たノンチック青年は、昭和20年8月15日を東京で迎えた。宿舎のラジオで終戦の詔勅を聴き、周囲の日本人と同じ悲しみを噛みしめた。そして、こう直感したという。
「国敗れて山河あり。日本に天皇陛下あり。勇気と勤勉な日本人あり。日本は決して滅びない」
敗戦にあたって、ノンチック青年の胸に去来したものは、大東亜戦争の劈頭、日本軍がマレー人を驚かせ、心に植え付けてくれたアジア解放の勇姿だった。青年は悲しみに暮れながらも決意する。
「マラヤの独立は、これからが本番である。日本はアジアのために戦い疲れて敗れたが、これからは我々マレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」
▼昭和20年8月15日の宮城前
その決心の通り、青年は祖国独立の為の戦場に赴き、戦い抜いた。日本軍がマレー半島から去って、何年が経った頃だったろうか。立派な紳士となったノンチック氏の元を1人の日本人が訪ねて来て、言った。
「日本軍はマレー人を虐殺したの違いない。その事実を調べに来たのだ」
教師だと名乗る日本人の言葉に、ノンチック氏は驚いた。そして、こう言い返した。
「日本軍はマレー人を1人も殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけです。そして日本の将兵も血を流しました」
日本から遥々やって来たというアカ教師が、その言葉にどう反応したのか、定かではない。一方、ノンチック氏は強い不安に駆られた。祖国の軍隊を悪く言う日本人は、決して特殊なケースではなかったのだ。
「どうしてこのように今の日本人は、自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようとしないで、悪いことばかりしていたような先入観を持ってしまったのでしょう。これは本当に残念なことです」
老境に差し掛かったノンチック氏はそう案じ、マレーシア在住の日本人の親友を頼った。自分が戦時中に体験したこと、そこで出会った素晴らしい日本人たちについて綴ってくれるよう頼んだのである。
そして、世に送られたのが、土生良樹氏著『日本人よ ありがとう』だった。発刊時期は、昭和から平成の御世に移り変わって間もなくの時代。それは、奇跡のような1冊だ。
【ASEAN裏面史の日本留学生】
「オマエが買った馬券は負けたのだ。オマエらアジア人が、われわれに勝てるわけがない」(前掲書146頁)
終戦から5ヵ月後、青年は出頭したGHQ英軍代表部で、激しく罵倒された。留学先を日本に選んだ者は、負け組だというのだ。当時、青年は東京大学に籍を置いていた。
マラヤから来た青年は、その名をラジャー・ダト・ノンチックと云った。「ラジャー」は、王族に対する敬称で、「ダト」は、マレーシア国家功労勲章の受章者であることを示す。
英国の植民地だったマレー半島。そこで家系を保ったエリート子弟には、英国に留学する選択肢もあったが、ラジャー・ノンチックは、極東の島国を目指した。1941年12月の出来事が運命を変えたのだ。
我が軍のコタバル上陸とタイ南部からの進撃をニュースで知ったラジャー・ノンチックは、ひどく興奮した。4世紀に及ぶ英国の植民地支配…その終わりを予感したのである。
開戦から半年後、昭南島に現地人エリートを養成する「興亜訓練所」が開校した。ラジャー・ノンチックは年齢制限に阻まれ、入学叶わなかったが、熱意が届き、1年半後、南方特別留学生に選抜される。
▼南方特別留学生1期生(昭和18年)
南方特別留学生は、後にASEAN各国の政治家・実業家となった者が多いことで知られる。広島留学中に被爆したブルネイのペンギラン・ユソフ初代首相が有名だ。
本書『日本人よ ありがとう』では、前半のハイライトとしてラジャー・ノンチックの留学記が綴られる。だが、他の関連書籍と違い、南方特別留学生の別の素顔も同時に説き明かされる。
「私が日本敗戦後のインドネシア独立戦争で、私の祖先の国であるスマトラの戦闘に参加したのも、あの本郷寮の同期生だったスマトラの七名が、独立軍の指揮官になっていたからです」(前掲書93頁)
▼本郷寮再訪したノンチック氏’87年
本郷寮とは都内・目黒にあった留学生用の宿舎だ。ラジャー・ノンチックを始め留学生の一部は、短期間ながら陸軍士官学校にも入学。そこでの人脈が更に1965年の反スカルノ・クーデター収拾にまで繋がる。
本書の後半は、GHQ経由で移送されたチャンギー監獄から脱出、インドネシア独立戦争、マレー半島での共産ゲリラ討伐…そして非常事態下のジャカルタに密使として潜入する姿も描かれる。
▼現座間市の陸士・留学生隊校舎
ASEANの生みの親の1人、マレーシアのアブドル・ラザク副首相は、昭南興亜訓練所の3期生だった。その影では、ラジャー・ノンチックら南方特別留学生OBが、実務者として協議を重ねていた。
一端ながら、ASEAN結成の裏面史が明かされていることも興味深い。
【美しい日本人は何処へ…】
陸軍士官学校でも学んだラジャー・ノンチックは、共産ゲリラ掃討作戦を指揮した後、軍人になる道を選ばなかった。県知事を経て、1959年、新設のMCS(国家計画庁)のトップに選出された。
政府に招いたアブドル・ラザク副首相は、我が軍が創設した昭南興亜訓練所の3期生。そして南方特別留学生の2期生でもあった。その頃の模様をラジャー・ノンチックは、こう語る。
「新国家マラヤ連邦の建国の基本策とその具体策は、当時、マレー人青年の日本グループによって進められたといっても決して過言ではありません。あの当時のMCS本部は、昭南、マラヤ両東亜訓練所と南方特別留学生の同窓会本部の雰囲気でした」(前掲書253頁)
▼連邦議員正装姿のノンチック氏
ラジャー・ノンチックは、1964年のマレーシア初の総選挙に出馬。多くの支持を集めて当選する。38歳の若さだった。その後、州議会議長、連邦上院議員を歴任し、1982年に政界から退く。
政治家引退後は、実業家として日本企業との合弁事業に奔走。川崎重工や東芝などを相手に創設した合弁会社は十数社にのぼる。しかし、日本企業との関わりの中で、違和感が膨らんでいった。
「私は日本人の素晴らしさは“思いやり”が豊かな民族であると思っていました。思いやりの根底には、大変残念なことですが、モノとカネが優先することが多くなっています。ポケットとポケットの付きあいからは何も遺りません」(前掲書299頁)
具体的に名指しして批判することはしなかった。けれども、戦後の日本人は、ラジャー・ノンチックに不安を抱かせたようだ。そこに、戦時中に出会った日本人の姿を見出すことが出来なかったのである。
▼福田首相迎えるノンチック氏'77年
「私たち南方特別留学生が教育を受けた頃の日本は、現在の日本とは比べることができないほど貧しい国でした。しかも、あの当時の日本は、全身傷だらけになって、アジアを西欧植民地から解放するための大東亜戦争を戦っておりました。
私たちはその貧しい戦時下の日本で『日本の素晴らしさ』を与えられたました。
あの当時の日本人は、心と心が触れ合う交わりをもって、アジア諸国に偉大な遺産を遺してくれました。すなわち四百年の永きにわたった植民地体制を打破し、アジアの青年たちに民族自決の戦いをとる決意と覚悟を与えてくれたのです。私たちは、日本の青年が命を捨て血を流して遺してくれた、尊い偉大な遺産を基にして祖国の独立とアセアンの結成を成し遂げたのです」(前掲書299-300頁)
ラジャー・ノンチックは、繰り返して、ポケットとポケットの付き合いからは将来何も残らないと警告する。戦後に出会った日本人は、ひどく彼を失望させる者が多かったようだ。
それでもラジャー・ノンチックは、マレー大の評議員として日本語学科を創設するなど後の「ルック・イースト」政策の下地を築く。そして1984年には日本政府から「勲二等瑞宝章」を叙勲された。
▼勲二等瑞宝章賜るノンチック氏
来日歴も多く、平成元年2月の大喪の礼にも参列している。本書が出版されたのも、同じ年だ。他界する5年前のことである。ラジャー・ノンチックには是非とも今の日本人に伝えたいメッセージがあった。
そのメッセージは、本書の序文に一篇の詩として残された。ネット上では以前からマイナーな人気を誇る詩だ。翻訳ではなく、戦中に学んだ日本語を駆使して創作したものである。
<序にかえて>(前掲書3~8頁)
かつて 日本人は
清らかで美しかった
かつて 日本人は
親切でこころ豊かだった
アジアの国の誰にでも
自分のことのように
一生懸命つくしてくれた
*
何千万人もの 人のなかには
少しは 変な人もいたし
おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけて
いばってばかりいる人だって
いなかったわけじゃない
*
でも その頃の日本人は
そんな少しの いやなことや
不愉快さを越えて
おおらかで まじめで
希望に満ちて明るかった
☆
戦後の日本人は
自分たち日本人のことを
悪者だと思い込まされた
学校でもジャーナリズムも
そうだとしか教えなかったから
まじめに
自分たちの祖父や先輩は
悪いことばかりした残酷無情な
ひどい人たちだったと 思っているようだ
*
だから アジアの国に行ったら
ひたすら ペコペコあやまって
私たちはそんなことはいたしませんと
言えばよいと思っている
*
そのくせ 経済力がついてきて
技術が向上してくると
自分の国や自分までが
えらいと思うようになってきて
うわべや 口先では
済まなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの
自分本位の えらそうな態度をする
そんな
今の日本人が心配だ
☆
本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは
今は いつも 歯がゆくて
くやしい思いがする
*
自分のことや
自分の会社の利益ばかり考えて
こせこせと
身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は
これが本当の日本人なのだろうか
*
自分たちでだけで 集まっては
自分たちだけの 楽しみや
ぜいたくに ふけりながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている
その国と 国民のことを
さげずんだ眼でみたり
バカにしたりする
☆
こんな ひとたちと
本当に仲良くしてゆけるだろうか
どうして
どうして日本人は
こんなになってしまったんだ
<詩>ラジャー・ダト・ノンチック
1989年4月 クアラルンプールにて
▼東京滞在中のノンチック夫妻’85年
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります
↓

**************
【side story】
8年前のエントリ内容を全面的に改訂しました。当時、「詩」を紹介したHPがリンク消失したほか、現在のネット上では出典を疑問視するようなコメントも散見されたり…
そのことから所蔵する初版本を引っ張り出して、写真入り
で実在を証明した次第です。戦後の企業人とコンタクトして失望したラジャー・ノンチックの思いに触れることで、一篇の詩に、より深味を与えることが出来れば幸いです。
また本書には、藤原岩市大佐の「F機関」も断片的に登場し、当時のマレー青年がどう受け止め、どう行動したのか記されていますが、永くなるので全面カット。以下のエントリでも触れていない部分があるので、少し残念かも。
関連エントリ:
H22年12月9日『その名はF機関:完全版…大東亜戦争の英雄・藤原岩市』
H18年12月27日『マレーの虎ハリマオ・谷豊の壮絶生涯(前編)』
H18年12月27日『マレーの虎ハリマオ・谷豊の壮絶生涯(後編)』
この記事へのコメント
メッセージ本文:舛添都知事が今年4月に中国に行った際、唐家?から印鑑を授けられました。
中国が発行する人民中国8月号に載ってました。中国では、臣下に対して印章を授けることによって官職の証とした制度がありました。いわゆる印綬です。漢委奴国の金印が有名です。
こういった歴史的背景があるにもかかわらず、天皇陛下が訪中した際、江沢民は、お土産に陛下に印章を渡そうとしました。しかし、お付のものが気づいて事なきを得ています。
一方、盧武鉉大統領は、大清国属旗の前で石印をもらい、ネットでは大いに笑われています。
舛添都知事はいつの間にかもらってきてました。今回、舛添都知事が中国から印鑑をもらったことは少なくとも2つの問題があります。
一つは、中学生でもちょっと勉強していれば中国から印をもらうことは、漢委奴国の金印のことを思い出して、問題があると気づくのに、舛添知事はそんなことも気づかず、あまつさえ、中国の雑誌、人民中国の取材を受けて、わざわざ頂いたと公表していることです。舛添知事の程度が著しく低かったということが問題です。
もう一つは、たとえ程度の低い人間であろうとも、都知事という肩書きがある者が、中国から臣下の礼を取ったと受け取られることをやったことです。何十年か後に、舛添が何たるかを知らない人たちばかりになれば、都知事が中国から印授されたという事実だけが残るからです。
唐家は、江沢民時代の外交部長であり、もしかしたら、陛下や盧武鉉に印鑑を渡そうとしたのも唐家の仕業だったのかもしれません。あとは、国会議員やその他の首長が中国に行っては印鑑をもらっていないか心配です。
まったく、ゴルフしながら「カネないんですよ」って泣きついていた2年前のことなんか忘れているよなあのハゲ。てめえの借金肩代わりさせて都知事様であげくには自分の出自の朝鮮びいき、さらには中国に頭下げるってか。朝鮮人によく見られる典型的な「強いものに弱く弱いものに強い」・・・暴力団も一緒だな・・・ってのの典型だよ。以下投稿。
題名: 舛添都知事が印綬
人民中国該当記事
http://up.mugitya.com/img/Lv.1_up49515.jpg.html
http://up.mugitya.com/img/Lv.1_up49516.jpg.html
盧武鉉や陛下の時の関係記事
http://genevieve65.blog.fc2.com/blog-date-20131221.html#entry724
「人間を解剖したい」と言い出して本当にやってしまった佐世保の女子高生、在日韓国人の徳勝もなみ。
今度は、「毎年10人は子供を作りたい」と言い出して本当にやってしまった在日韓国人が登場。
さて最近は、メジャーなマスゴミは在日韓国人の支配する電通王国に支配されているから、情報伝達が実に遅い。
一方、ネット界には、自分でどんどん調べて公表する輩が少なからず全世界に存在している。だから、ネットをうまく捜せば、大手新聞テレビよりはるかに早く深い情報を得ることができる。そういう時代になった。知らぬはマスゴミだけ。
このキチガイ御仁もすでに顔まで特定されていた。
やった男は、日本のベンチャー企業「光通信」の重田康光氏(49)の子息・重田光時氏。
男性の名前は「シゲタ・ミツトキ」――。ITベンチャーの雄として一世を風靡した「光通信」の創業オーナーの御曹司と名前の読み方と年齢がピタリ符合するのだが果たして…?
今なお不明な点の多い男性資産家の名前の読みと年齢が重なる人物が、「光通信」の大株主に名を連ねている。同社の代表取締役会長兼CEOの重田康光氏(49)の子息・重田光時氏である。
光時氏は光通信の株式68万5500株(1.44%)を保有する。8日終値ベースの時価総額は約48億円に上る。光通信の13年3月期の年間配当金は140円。光時氏は約9597万円の配当を手にした計算となる。光通信は父・康光会長が個人筆頭株主で保有株数は約263万株。時価換算で約185億円の資産になる。
私が言いたいことは、「精神分析」なんていうオカルト科学のニセ科学など何の意味も無い。(事実、そういう精神科医の処方する薬で自殺し証拠隠滅されてしまうのがおちである。日本人大量殺人の在日韓国人の角田は、神戸県警で弁護士と会見した直後に拘置所内で自殺した。なんでこの弁護士を逮捕収監しないのだろうか?STAP細胞の笹井博士も神戸県警から遺書がリークされた。神戸県警ほどうさんくさいパチンコ警官もないだろうヨ。)
あまり知られていないが、どうして韓国人が朝鮮戦争時にチェジュ島から日本へ逃げた同胞の帰還を嫌がったのか?それを拒否したのか?
これも戦後のタブーの一つだった。
すでによく知られていることは、韓国時代劇にあるように、チェジュ島は長らく朝鮮人の犯罪者のいく刑務島だったこと。彼らが呼ぶ所の「病身」がいくところだった。つまり、精神病者を追いやった島なのである。
だから、韓国人は犯罪者や精神病の遺伝を持つ同胞を朝鮮戦争のどさくさにまぎれて皆殺ししようとしたのであった。大半が日本に逃げて不法移民として大阪を中心に日本全国へ拡散した。だから、韓国人にとっては病身が日本へ行ったらありがたがった。それゆえ、在日韓国人の帰還を拒んだのである。
これが、在日韓国人から信じ難い殺人鬼が頻繁に生まれる理由なのである。
既にご存知だと思うが、今月5日、朝日新聞は、ついに吉田清治にかかわる記事について「取り消します」と書いた。
つまり「軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は(朝日新聞の調査でも)見つかっていません」と明かし、「(吉田清治の)証言は虚偽だ」と認めたのである。
が、朝日新聞は反省したわけではない。
彼らが一貫して主張してきた内容が「虚偽」、と言うより「プロパガンダ」であることが誰の目にも明らかになったので、巧妙に開き直ろうとしたにすぎない。
その証拠に、朝日新聞は同じ口で「問題の本質は、軍の関与がなければ成立しなかった慰安所で女性が自由を奪われ、尊厳が傷つけられたことにある」と言い、「これまで慰安婦問題を報じてきた朝日新聞の問題意識は、今も変わっていない」と公言する。
厚顔無恥という言葉があるが、この新聞にピッタリだ。
文字どおり「恥知らず」、自らの責任に対する自覚がゼロである。
しかも、捏造記事を書いた自社の(元)記者=植村隆を批判されると、「意図的な事実のねじ曲げなどはありません」と居直り、他誌に謝罪と訂正を求める。
ほんとうに、この新聞は日本人が書いているのか?
と疑いたくなる。
虚偽を真実に見せかける。
ばれたら論点をすり替えて、けっして自らのウソを認めようとしない。
そして最後は、逆ギレして批判者を告訴する。
そう...
あの韓国と韓国人にそっくりだ。
彼らには客観的視点というものがない。
主観的な思い込みに基づき、情緒に訴える。
その主張は科学的分析や検証とは無縁である。
彼らが「正しい」と言うものが「正しい」のであり、そのために都合の良い事実ばかりをかき集める。
事実が足りなければ捏造して補う。
だから歴史は史実ではなく物語になる。
まさに朝日新聞は韓国と韓国人にそっくりではないか!
そうなのだ。
朝日新聞は韓国の新聞なのだ。
そう思えば納得がいく。
依存症の独り言より
「人肉食」も…旧日本軍のインド人捕虜への残虐行為、印紙報道 その背景とは
【英印軍の将校らによる、日本軍の人肉食の証言】
「しかし、日本軍が行ったあらゆる残虐行為の中で、最も戦慄を覚えさせるものは、彼らが人肉食を行ったことである」と記事は伝える。
英印軍のある将校はこのように告発にする。「Suaidという村で、日本軍の軍医が、周期的にインド人捕虜収容所を訪れて、毎回、最も健康な者たちを選び 出した。その者たちは、表向きは任務を果たすためということで連れ去られたが、彼らは決して戻ることはなかった」。さらに日本軍は、インド人捕虜ばかりで なく、ニューギニアの現地人さえも殺害し、食していたと主張する。
記事では、これらの告発内容についての裏付けは伝え られていないが、この他にもさまざまな証言があるという。しかもそれらは、連合国が設置した戦争犯罪調査委員会に対する、宣誓証言として行われたと伝えて いる。その証言に基づき、何人かの日本人将校とその部下が裁判にかけられた。人肉食によって有罪が宣告され、絞首刑に処された将校の名前を、記事は挙げて いる。訴えられた日本人は、これらの告発を常に否認したそうだ。
http://news.livedoor.com/article/detail/9149814/
http://www.youtube.com/watch?v=_4qQCRT0v-4&feature=player_embedded
http://www.nicovideo.jp/watch/sm24249866
質問者:福島さんにお聞きしたいんですが、慰安婦の問題っていうのは、あれは全部ウソなんですよね?
みずほ:いやそんなことはないですよ。
(場が凍りつく)
質問者:そんなことはないんですね?
みずほ:そんなことはないです。
平和憲法BARが凍りついた!
http://nicoviewer.net/sp/sm24249866
みずほ:…あとたとえばですね、17歳のときに声をかけられ、
「お嬢ちゃんお嬢ちゃん日本に行けばいい仕事があるよ。倉敷の軍服工場で働けば、少しはお金も儲かるかもしれない」って言われて、船に乗ったところ、広島に連れて行かれ、その後数日後に、ニューブリテン島のラバウルって所に連れて行かれた女性がいまして、そこで教会を改装した慰安所で、何年かもう慰安婦だけの生活を送らざるを得なかった、
隣の男:分かりやすく言うと、騙された、ってことですね。
みずほ:そうですね。
http://nicoviewer.net/sp/sm23866968
http://www.youtube.com/watch?v=OPYJCY-7_sY
これはヒドイです。
全ての諸悪の根元は、
強欲、保身、近視眼と三拍子揃った劣化日本人の巣窟、the団塊ジジイとその世代が招いた不幸である。
こいつらの凄いのは、己の事し考えず、己の行いを一切省みることなく、おのれにとことん甘い特長がある。
一時でも己さえ気持ち良ければいい、
騙されるやつが悪いんだとと本気で思っていきてきたやつがほとんどだ。
いまの日本や次世代を苦しめる理不尽な事柄も全てこいつら、自分さえ良ければ、金さえてにはいればと、後先考えず己の快楽のみに生きてきた付けの皺寄せを押し付けられただけである。
そして己はそんなことさえも全くふりかえることなく、医療費、年金を当然のように浪費しまくり、テレビや新聞に疑いもなく洗脳され反日同級生の売国出来損ない団塊ヤロウに投票し、更に若者や日本の足を引っ張るのである。
おのれは、そんな迷惑な生きざまをしているのも一切省みることなく。
恥を知りなさい、団塊世代よ。