有本さんと戦後日本の空白…蠢いたザグレブ拉致特命機関
日本人拉致欧州ルートで暗躍した非道のザグレブ機関。残酷な網に捕らわれた有本恵子さんと母の再会は遂に叶わなかった…「空白の37年」は決して有本さん一家だけのものではない。
「欧州で多くの韓国市民が消息を絶っており、そこで活動している北朝鮮工作員に拉致されたと信じられている」
拉致事件に大きく踏み込んだ2014年のUN北朝鮮人権調査委の最終リポートは、南鮮人の事例にも触れていることは余り知られていない。調査委が拉致と結論付けた被害者は70人に及ぶ。
▽UN安保理の対北人権非難決議採択’15年(ロイター)
未遂に終わった事件や拉致後に「自主的な北入国」を主張する人物が含まれているか否か、被害者数の累計は不明だ。危うく難を逃れたものとしては、1977年に起きた南鮮人女優のケースが知られる。
「スイスの大富豪が老父母の為の音楽会に招きたがっている」
パリ在住の女優・尹静姫は、ピアニストの夫と共に招待され、チューリッヒを訪問。しかし大富豪は謎の東洋人で、音楽会を催すのはユーゴで、直ぐザグレブにある別荘へ移動するよう言われる。
▽中世の面影を残すザグレブ市街地(File)
怪しんだ夫が米公館に駆け込んだことで事件は未遂になり、また関係国で話題になったという。それにより旧ユーゴ政府が介入。事情説明を求めた所、北朝鮮大使は驚くべき、返答をした。
「今回の未遂事件は、ザグレブ駐在の領事同志とは何ら関係なく、平壌から派遣された工作チームによるものだ」
拉致工作に本国が組織的に関わっていた事実を明かす重大証言だ。この「説明」は、ユーゴ崩壊後にクロアチア政府が保管する外交文書の中から発見される。事件発生から26年が過ぎていた。
▽文書が見つかったクロアチア外務省(File)
一方、駐在領事らが無関係という発言は責任逃れの嘘だ。北朝鮮は、伝統的な友邦だった旧ユーゴ内でも取り分けオーストリアに近いザグレブに工作員を集めていた。我が国の警察関係者は、こう語る。
「当時のザグレブはコペンハーゲン、ウィーンと共に西欧への工作活動上、重要な拠点だった」
本国から秘密指令を受け、欧州で暗躍したザグレブ機関。そして80年代初め、北朝鮮ザグレブ総領事館に1人の大物工作員が副領事の肩書きで赴任する。欧州ルート日本人拉致の始まりである。
【実行犯はザグレブ機関の指揮官】
「いきなり、お宅の娘さんとうちの息子が平壌にいるといわれるのでびっくりしました」(石高健次著『金正日の拉致指令』266頁)
突然の電話を受けた有本嘉代子さんは、狐につままれたような気になったと回想する。昭和63年秋のことだ。英国留学中の娘・恵子さんは5年前に消息不明となり、家族は途方に暮れていた。
電話の主は拉致被害者・石岡享さんの母親で、存命を伝える息子からのエアメールに有本恵子さんの名があったのだ。手紙には、結婚して平壌に暮らす2人の肖像と一緒に赤ちゃんの写真も入っていた。
▽東欧経由で届いたエアメール(産経file)
「我々の生存の無事を伝へたく、この手紙をかの国の人に託した次第です」
命懸けの手紙だった。送付元はポーランドで、便箋は細い折り目がいくつもあった。外出する際、折り畳んだ便箋を隠し持ち、出国する人に託す機会を窺っていたのだ。
▽英国留学中の有本恵子さん'83年5月(ご家族提供)
エアメールには恵子さんの旅行傷害保険の証書も同封されていた。それにも折られた跡が残る。この日から、娘を取り戻す為の有本夫妻の長い戦いが始まった。
石岡享さんは、欧州長期旅行中の’80年、マドリード〜ウィーン経由で北朝鮮に連れ去られる。列島沿岸部の暴力的な拉致とは異なるが、日本人獲得工作という同じ長期的・国家的な犯罪計画に基づく。
▽バルセロナの石岡享さんと森順子ら’80年(File)
拉致実行犯は、在日2世の森順子と主体思想研究会の幹部活動家・黒田佐喜子。今で言うチュサッパで、松木薫さんも毒牙にかけた。この2人の上司がザグレブ機関を率いたキム・ユーチョルだ。
「この写真の女性に心当たりがありますでしょうか」(高沢皓司著『宿命』337頁)
平成5年5月、有本さん宅を訪れた兵庫県警外事課の刑事は、1枚の写真を提示した。白髪混じりの中年男と若い女性が並んで座っている…父・有本昭弘さんは驚いて写真を取り落としそうになったという。
▽空港待合室で撮影された有本恵子さん(file)
「娘です、娘の恵子です。(略)…これはいつ、どこで撮られたもんですやろ。横に座ってる男は誰ですのや」(前掲書337頁)
刑事は捜査中としながらも、男が北朝鮮の工作員と見られていることを告げた。撮影場所はデンマーク首都コペンハーゲンのカストロップ空港。拉致実行の現場を捉えた決定的証拠である。
【有本夫妻の孤独な戦いが始まった】
「初めての顔だ。この女は誰なのか…」
写真を入手した我が国の警察関係者も、首を傾げたという。撮影した者は「西側情報機関」で国別までは不明。警察庁に定期的に届けられる参考資料のひとつに過ぎなかった。
冷戦時代、西欧の諜報関係者は欧州で暗躍する北朝鮮のエージェントを追跡。その中でも大物格としてマークしていたのが、ザグレブ機関のキム・ユーチョルだった。
▽拉致実行犯のキム・ユーチョル(File)
キムは北の情報機関である朝鮮労働党対外連絡部56課に所属、70年代末のデンマーク派遣を皮切りに活発な活動を開始。各国がキムの行動確認を続ける中、偶然、有本恵子さんが写真に収められた…
この写真の初出は平成9年の『週刊文春』記事で、警察庁国際テロ対策室の極秘ファイル、通称パンドラの奥に眠っていた。本来は世に出るものではない。
▽アスペクト比が若干違うが同じ写真
メディアに提供した経緯は今も明らかにされていないが、対策室の判断では公開不可能だ。拉致事件解明の一助となるよう当時の公安トップ或いは官邸レベルの裁可を経て、公開に至ったと考える。
一方、エアメールが届いて以降、有本さんは娘の帰国実現に向け、動き始めたが、手応えが得られることはなかった。実名公表に伴い、開催を試みた記者会見も潰える。
▽署名活動を行う有本夫妻H14年3月(神戸新聞)
「予定された記者会見は当日になって突然、中止された。政治家筋からの圧力があったと聞いている」(前掲書287頁)
有本夫妻が地元の有力議員で北とのパイプが太い土井高子を頼ったエピソードは有名だ。証拠品を持参し、議員事務所では割と暖かく迎えられたが、その後、連絡もなく関係は途絶えた。
▽金日成に迎えられる土井高子’87年(KCNA)
この時、土井側が平壌の党中央や朝鮮総連に密告したとの説もあるが、今となっては真相も闇の中。拉致を認めず、被害者家族を愚弄した土井は、遂に謝罪の言葉を口にせず死んだ。
平成9年には家族会が結成され、有本夫妻は横田さんらと街頭に立って署名活動を始めた。しかし、反応は薄く、辛い思いが募ることもあったという。
▽拉致被害者家族会の結成会見H9年3月(産経)
生存を伝えるエアメールが届いてから9年、恵子さんが拉致されてから既に14年の歳月が流れていた。
【金正日を追い詰めた有本さん拉致事件】
重大な転機となったのは平成14年3月だ。小泉訪朝の半年前だった。いわゆる「よど号妻」の1人である八尾恵が警察の任意聴取で、有本恵子さん拉致を自白。続いて法廷でも証言した。
「金日成主義による革命のために、ヨーロッパで活動してきたことや、有本恵子さんが私に騙されて“結婚”目的で北朝鮮に連れて行かれたことを、証言しました」(八尾恵著『謝罪します』339頁)
八尾恵もキム・ユーチョルの工作組織に所属し、ザグレブを拠点に活動してきた1人だった。有本さん拉致後は横須賀でバーを開き、防衛大生のオルグ活動に従事していた。
▽ザグレブにあった拉致実行犯の拠点(撮影:高沢皓司)
そして出廷を目前に控えた同年3月2日、八尾は有本夫妻とホテルで対面し、土下座して謝罪した。夫妻は責めることもせず、有本嘉代子さんは、こう話し掛けた。
「もういいです。顔を上げてくださいね。よう言ってくださいました。本当にね」(前掲書338頁)
この謝罪シーンはテレ朝が独占取材し、裁判前日にオンエアされたが、現在はお蔵入りの模様だ。TVカメラが回っている中とは言え、嘉代子さんの優しさが伝わってくる。
▽娘のアルバムを眺める嘉代子さんH26年(産経)
そして八尾の証言・謝罪は、報道史上に残る“劇的な対面”に終わらなかった。翌4月、衆参両院は「拉致疑惑の早期解決を求める決議」を全会一致で採択。拉致事件に関わる初の国会決議である。
拉致被害者の実在、共犯者の自供、実行犯の証拠写真。通常の刑事事件に倣えば、立件に必要な全てのピースが揃った格好だ。これが第1時小泉訪朝の金正日自供に結び付く。
▽外務省から報告受ける嘉代子さんらH14年9月(毎日)
だが、北当局がチョイスした「生存者リスト」に有本恵子さんの名前はなかった。夫妻の無念は計り知れない。一部で事前に囁かれた恵子さん最有力説とは何だったのか。
また自民党の売国議員が訪朝時に提案した“第三国発見方式”は、恵子さんを念頭に置いたものではなかったのか…
【拱手傍観…戦後日本の「空白」】
「涙は出るけど言葉が出えへん」
▽会見に臨んだ有本昭弘さん2月6日(産経)
何度も涙を拭いながら有本昭弘さんは、声を振り絞る。2月3日、妻・嘉代子さんが亡くなられた。帰国した恵子さんとの再会は叶わなかった。私たちは叶えてあげらなかった。
「何とかお元気なうちに、恵子さんを取り戻すことが出来なったことは痛恨の極みであります」
安倍首相は2月6日、そう悼んだ。かつて有本夫妻は土井の事務所に続いて、自民党の安倍晋太郎幹事長を訪ねた。この時、夫妻が語る事件の経緯に耳を傾け、戦慄したのが秘書時代の首相だった。
▽お悔やみの言葉を述べる安倍首相2月6日(産経)
有本恵子さん拉致事件こそが、その後の政治家としての姿勢を決めた安倍首相の原点である。「長い間、共に戦ってきた」という言葉に偽りも飾りもない。
だが、第2次政権の約7年で拉致事件は、進展しないばかりか後退している。恒例のUN対北人権非難決議では昨年、我が国は提出国から外れた。日朝関係への配慮とする見方が支配的だ。
▽来日したワームビア夫妻12月14日(産経)
米朝の第3次融和ムードは、理由にならない。トランプ大統領が首脳接触に期待を寄せる中でも、米国は昨年12月、強力な対北制裁に繋がる「ワームビア法」を成立させた。
我が国の政府与党、議会野党だけではなく、メディアも拉致事件の取り扱いは低調だ。家族会の活動は断片的に伝えられるが、埋もれた事実を掘り起こす積極的な報道は絶滅した。
▽会見に臨む昭弘さんらご遺族2月6日(毎日)
嘉代子さんの訃報に接し、久しぶりに『宿命』や『金正日の拉致指令』を繙いたが、圧倒された。事件の断片を丹念に収拾し、全体像を浮かび上がらせる。気迫に満ちたノンフィクション、調査報道だ。
当時と比べ、特定失踪者にアプローチすることもない今の報道各社は劣化が激しい。それでも、ジャーナリストの怠慢や政府の無策を責めても詮方無いだろう。
▽有本恵子さん60歳の誕生日1月12日(産経)
寧ろ、筆者自らを戒め、猛省する。初期は、拉致事件を手厚く扱ったが、出稿数は右肩下がりで、遂に昨年の記事はゼロ本になった。拉致事件から目を背け、蔑ろにした部分があるのではないか…
金正恩政権が小泉訪朝前の完全否定・ガン無視路線に回帰し、具体的な動きがないことは理由にならないだろう。完黙は北朝鮮の手口で、その手に易々と乗ってはならない。
▽署名活動に励む有本嘉代子さん(産経)
拉致発生から今に至る37年間の「空白」は、決して有本さん一家だけのものではなく、我々の「空白」でもある。もし彼ら彼女たちを救い出せなければ、国家の有り様から存在意義までが問われる。
戦後の我が国が自慢する“平和”も化粧に過ぎず、下には非情な素顔が覗く。特定失踪者を含む全員の奪還は、日本及び日本人に課せられた重大な使命だ。
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます
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↓

参考文献:『宿命』高沢皓司著(新潮文庫’98年刊)
『金正日の拉致指令』石高健次著(朝日文庫’98年刊)
『謝罪します』八尾恵著(文藝春秋’02年刊)
参照:
高世仁の「諸悪莫作」日記2月7日『有本恵子さん拉致の全貌 1』
(↑有本さん事件調査報道のもう1人の功労者で、サンプロ枠内で19年前に放送された先駆的な特集を文・画像で再録、連載中)
□外務省HP 2014年3月17日『北朝鮮における人権に関する国連調査委員会最終報告書 拉致問題関連部分仮訳(PDF)』
□首相官邸HP2月6日『有本嘉代子氏の逝去及び拉致問題についての会見』
参考記事:
□産経新聞H27年9月15日『拉致被害者を破廉恥パーティーに招待 北朝鮮に「私が連れてくるよう指示した』
□イザH25年3月28日『【再び、拉致を追う】よど号犯の指導員だった北工作員「KYC」と呼ばれた男』
□イザH25年3月29日『【再び、拉致を追う】有本恵子さん、石岡亨さん…2人は「知りすぎた被害者」に』
□デイリー新潮2月11日『「有本恵子さん」の母親、嘉代子さん逝去 優しかった「八尾恵」への対応』
□産経社説2月8日『有本さんの母死去 拉致被害者の帰国を急げ』
「欧州で多くの韓国市民が消息を絶っており、そこで活動している北朝鮮工作員に拉致されたと信じられている」
拉致事件に大きく踏み込んだ2014年のUN北朝鮮人権調査委の最終リポートは、南鮮人の事例にも触れていることは余り知られていない。調査委が拉致と結論付けた被害者は70人に及ぶ。
▽UN安保理の対北人権非難決議採択’15年(ロイター)
未遂に終わった事件や拉致後に「自主的な北入国」を主張する人物が含まれているか否か、被害者数の累計は不明だ。危うく難を逃れたものとしては、1977年に起きた南鮮人女優のケースが知られる。
「スイスの大富豪が老父母の為の音楽会に招きたがっている」
パリ在住の女優・尹静姫は、ピアニストの夫と共に招待され、チューリッヒを訪問。しかし大富豪は謎の東洋人で、音楽会を催すのはユーゴで、直ぐザグレブにある別荘へ移動するよう言われる。
▽中世の面影を残すザグレブ市街地(File)
怪しんだ夫が米公館に駆け込んだことで事件は未遂になり、また関係国で話題になったという。それにより旧ユーゴ政府が介入。事情説明を求めた所、北朝鮮大使は驚くべき、返答をした。
「今回の未遂事件は、ザグレブ駐在の領事同志とは何ら関係なく、平壌から派遣された工作チームによるものだ」
拉致工作に本国が組織的に関わっていた事実を明かす重大証言だ。この「説明」は、ユーゴ崩壊後にクロアチア政府が保管する外交文書の中から発見される。事件発生から26年が過ぎていた。
▽文書が見つかったクロアチア外務省(File)
一方、駐在領事らが無関係という発言は責任逃れの嘘だ。北朝鮮は、伝統的な友邦だった旧ユーゴ内でも取り分けオーストリアに近いザグレブに工作員を集めていた。我が国の警察関係者は、こう語る。
「当時のザグレブはコペンハーゲン、ウィーンと共に西欧への工作活動上、重要な拠点だった」
本国から秘密指令を受け、欧州で暗躍したザグレブ機関。そして80年代初め、北朝鮮ザグレブ総領事館に1人の大物工作員が副領事の肩書きで赴任する。欧州ルート日本人拉致の始まりである。
【実行犯はザグレブ機関の指揮官】
「いきなり、お宅の娘さんとうちの息子が平壌にいるといわれるのでびっくりしました」(石高健次著『金正日の拉致指令』266頁)
突然の電話を受けた有本嘉代子さんは、狐につままれたような気になったと回想する。昭和63年秋のことだ。英国留学中の娘・恵子さんは5年前に消息不明となり、家族は途方に暮れていた。
電話の主は拉致被害者・石岡享さんの母親で、存命を伝える息子からのエアメールに有本恵子さんの名があったのだ。手紙には、結婚して平壌に暮らす2人の肖像と一緒に赤ちゃんの写真も入っていた。
▽東欧経由で届いたエアメール(産経file)
「我々の生存の無事を伝へたく、この手紙をかの国の人に託した次第です」
命懸けの手紙だった。送付元はポーランドで、便箋は細い折り目がいくつもあった。外出する際、折り畳んだ便箋を隠し持ち、出国する人に託す機会を窺っていたのだ。
▽英国留学中の有本恵子さん'83年5月(ご家族提供)
エアメールには恵子さんの旅行傷害保険の証書も同封されていた。それにも折られた跡が残る。この日から、娘を取り戻す為の有本夫妻の長い戦いが始まった。
石岡享さんは、欧州長期旅行中の’80年、マドリード〜ウィーン経由で北朝鮮に連れ去られる。列島沿岸部の暴力的な拉致とは異なるが、日本人獲得工作という同じ長期的・国家的な犯罪計画に基づく。
▽バルセロナの石岡享さんと森順子ら’80年(File)
拉致実行犯は、在日2世の森順子と主体思想研究会の幹部活動家・黒田佐喜子。今で言うチュサッパで、松木薫さんも毒牙にかけた。この2人の上司がザグレブ機関を率いたキム・ユーチョルだ。
「この写真の女性に心当たりがありますでしょうか」(高沢皓司著『宿命』337頁)
平成5年5月、有本さん宅を訪れた兵庫県警外事課の刑事は、1枚の写真を提示した。白髪混じりの中年男と若い女性が並んで座っている…父・有本昭弘さんは驚いて写真を取り落としそうになったという。
▽空港待合室で撮影された有本恵子さん(file)
「娘です、娘の恵子です。(略)…これはいつ、どこで撮られたもんですやろ。横に座ってる男は誰ですのや」(前掲書337頁)
刑事は捜査中としながらも、男が北朝鮮の工作員と見られていることを告げた。撮影場所はデンマーク首都コペンハーゲンのカストロップ空港。拉致実行の現場を捉えた決定的証拠である。
【有本夫妻の孤独な戦いが始まった】
「初めての顔だ。この女は誰なのか…」
写真を入手した我が国の警察関係者も、首を傾げたという。撮影した者は「西側情報機関」で国別までは不明。警察庁に定期的に届けられる参考資料のひとつに過ぎなかった。
冷戦時代、西欧の諜報関係者は欧州で暗躍する北朝鮮のエージェントを追跡。その中でも大物格としてマークしていたのが、ザグレブ機関のキム・ユーチョルだった。
▽拉致実行犯のキム・ユーチョル(File)
キムは北の情報機関である朝鮮労働党対外連絡部56課に所属、70年代末のデンマーク派遣を皮切りに活発な活動を開始。各国がキムの行動確認を続ける中、偶然、有本恵子さんが写真に収められた…
この写真の初出は平成9年の『週刊文春』記事で、警察庁国際テロ対策室の極秘ファイル、通称パンドラの奥に眠っていた。本来は世に出るものではない。
▽アスペクト比が若干違うが同じ写真
メディアに提供した経緯は今も明らかにされていないが、対策室の判断では公開不可能だ。拉致事件解明の一助となるよう当時の公安トップ或いは官邸レベルの裁可を経て、公開に至ったと考える。
一方、エアメールが届いて以降、有本さんは娘の帰国実現に向け、動き始めたが、手応えが得られることはなかった。実名公表に伴い、開催を試みた記者会見も潰える。
▽署名活動を行う有本夫妻H14年3月(神戸新聞)
「予定された記者会見は当日になって突然、中止された。政治家筋からの圧力があったと聞いている」(前掲書287頁)
有本夫妻が地元の有力議員で北とのパイプが太い土井高子を頼ったエピソードは有名だ。証拠品を持参し、議員事務所では割と暖かく迎えられたが、その後、連絡もなく関係は途絶えた。
▽金日成に迎えられる土井高子’87年(KCNA)
この時、土井側が平壌の党中央や朝鮮総連に密告したとの説もあるが、今となっては真相も闇の中。拉致を認めず、被害者家族を愚弄した土井は、遂に謝罪の言葉を口にせず死んだ。
平成9年には家族会が結成され、有本夫妻は横田さんらと街頭に立って署名活動を始めた。しかし、反応は薄く、辛い思いが募ることもあったという。
▽拉致被害者家族会の結成会見H9年3月(産経)
生存を伝えるエアメールが届いてから9年、恵子さんが拉致されてから既に14年の歳月が流れていた。
【金正日を追い詰めた有本さん拉致事件】
重大な転機となったのは平成14年3月だ。小泉訪朝の半年前だった。いわゆる「よど号妻」の1人である八尾恵が警察の任意聴取で、有本恵子さん拉致を自白。続いて法廷でも証言した。
「金日成主義による革命のために、ヨーロッパで活動してきたことや、有本恵子さんが私に騙されて“結婚”目的で北朝鮮に連れて行かれたことを、証言しました」(八尾恵著『謝罪します』339頁)
八尾恵もキム・ユーチョルの工作組織に所属し、ザグレブを拠点に活動してきた1人だった。有本さん拉致後は横須賀でバーを開き、防衛大生のオルグ活動に従事していた。
▽ザグレブにあった拉致実行犯の拠点(撮影:高沢皓司)
そして出廷を目前に控えた同年3月2日、八尾は有本夫妻とホテルで対面し、土下座して謝罪した。夫妻は責めることもせず、有本嘉代子さんは、こう話し掛けた。
「もういいです。顔を上げてくださいね。よう言ってくださいました。本当にね」(前掲書338頁)
この謝罪シーンはテレ朝が独占取材し、裁判前日にオンエアされたが、現在はお蔵入りの模様だ。TVカメラが回っている中とは言え、嘉代子さんの優しさが伝わってくる。
▽娘のアルバムを眺める嘉代子さんH26年(産経)
そして八尾の証言・謝罪は、報道史上に残る“劇的な対面”に終わらなかった。翌4月、衆参両院は「拉致疑惑の早期解決を求める決議」を全会一致で採択。拉致事件に関わる初の国会決議である。
拉致被害者の実在、共犯者の自供、実行犯の証拠写真。通常の刑事事件に倣えば、立件に必要な全てのピースが揃った格好だ。これが第1時小泉訪朝の金正日自供に結び付く。
▽外務省から報告受ける嘉代子さんらH14年9月(毎日)
だが、北当局がチョイスした「生存者リスト」に有本恵子さんの名前はなかった。夫妻の無念は計り知れない。一部で事前に囁かれた恵子さん最有力説とは何だったのか。
また自民党の売国議員が訪朝時に提案した“第三国発見方式”は、恵子さんを念頭に置いたものではなかったのか…
【拱手傍観…戦後日本の「空白」】
「涙は出るけど言葉が出えへん」
▽会見に臨んだ有本昭弘さん2月6日(産経)
何度も涙を拭いながら有本昭弘さんは、声を振り絞る。2月3日、妻・嘉代子さんが亡くなられた。帰国した恵子さんとの再会は叶わなかった。私たちは叶えてあげらなかった。
「何とかお元気なうちに、恵子さんを取り戻すことが出来なったことは痛恨の極みであります」
安倍首相は2月6日、そう悼んだ。かつて有本夫妻は土井の事務所に続いて、自民党の安倍晋太郎幹事長を訪ねた。この時、夫妻が語る事件の経緯に耳を傾け、戦慄したのが秘書時代の首相だった。
▽お悔やみの言葉を述べる安倍首相2月6日(産経)
有本恵子さん拉致事件こそが、その後の政治家としての姿勢を決めた安倍首相の原点である。「長い間、共に戦ってきた」という言葉に偽りも飾りもない。
だが、第2次政権の約7年で拉致事件は、進展しないばかりか後退している。恒例のUN対北人権非難決議では昨年、我が国は提出国から外れた。日朝関係への配慮とする見方が支配的だ。
▽来日したワームビア夫妻12月14日(産経)
米朝の第3次融和ムードは、理由にならない。トランプ大統領が首脳接触に期待を寄せる中でも、米国は昨年12月、強力な対北制裁に繋がる「ワームビア法」を成立させた。
我が国の政府与党、議会野党だけではなく、メディアも拉致事件の取り扱いは低調だ。家族会の活動は断片的に伝えられるが、埋もれた事実を掘り起こす積極的な報道は絶滅した。
▽会見に臨む昭弘さんらご遺族2月6日(毎日)
嘉代子さんの訃報に接し、久しぶりに『宿命』や『金正日の拉致指令』を繙いたが、圧倒された。事件の断片を丹念に収拾し、全体像を浮かび上がらせる。気迫に満ちたノンフィクション、調査報道だ。
当時と比べ、特定失踪者にアプローチすることもない今の報道各社は劣化が激しい。それでも、ジャーナリストの怠慢や政府の無策を責めても詮方無いだろう。
▽有本恵子さん60歳の誕生日1月12日(産経)
寧ろ、筆者自らを戒め、猛省する。初期は、拉致事件を手厚く扱ったが、出稿数は右肩下がりで、遂に昨年の記事はゼロ本になった。拉致事件から目を背け、蔑ろにした部分があるのではないか…
金正恩政権が小泉訪朝前の完全否定・ガン無視路線に回帰し、具体的な動きがないことは理由にならないだろう。完黙は北朝鮮の手口で、その手に易々と乗ってはならない。
▽署名活動に励む有本嘉代子さん(産経)
拉致発生から今に至る37年間の「空白」は、決して有本さん一家だけのものではなく、我々の「空白」でもある。もし彼ら彼女たちを救い出せなければ、国家の有り様から存在意義までが問われる。
戦後の我が国が自慢する“平和”も化粧に過ぎず、下には非情な素顔が覗く。特定失踪者を含む全員の奪還は、日本及び日本人に課せられた重大な使命だ。
〆
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参考文献:『宿命』高沢皓司著(新潮文庫’98年刊)
『金正日の拉致指令』石高健次著(朝日文庫’98年刊)
『謝罪します』八尾恵著(文藝春秋’02年刊)
参照:
高世仁の「諸悪莫作」日記2月7日『有本恵子さん拉致の全貌 1』
(↑有本さん事件調査報道のもう1人の功労者で、サンプロ枠内で19年前に放送された先駆的な特集を文・画像で再録、連載中)
□外務省HP 2014年3月17日『北朝鮮における人権に関する国連調査委員会最終報告書 拉致問題関連部分仮訳(PDF)』
□首相官邸HP2月6日『有本嘉代子氏の逝去及び拉致問題についての会見』
参考記事:
□産経新聞H27年9月15日『拉致被害者を破廉恥パーティーに招待 北朝鮮に「私が連れてくるよう指示した』
□イザH25年3月28日『【再び、拉致を追う】よど号犯の指導員だった北工作員「KYC」と呼ばれた男』
□イザH25年3月29日『【再び、拉致を追う】有本恵子さん、石岡亨さん…2人は「知りすぎた被害者」に』
□デイリー新潮2月11日『「有本恵子さん」の母親、嘉代子さん逝去 優しかった「八尾恵」への対応』
□産経社説2月8日『有本さんの母死去 拉致被害者の帰国を急げ』
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