黒海に揺れる日露戦争の陽炎…170年に及ぶ北方の脅威
沈みゆく軍艦に歴史家はデジャブを感じた。プーチンとロマノフ朝最後のツァーリ。今のロシアが帝政末期と重なる。それでも170年に及ぶ我が国の“北方の脅威”は潰えない。
800人を超す乗組員の中で生存者は僅か1人だった。日本海海戦初日の猛攻で、ロシアが誇る戦艦「ボロジノ」は炎に包まれ、海中に没した。明治38年(1905)5月27日夜のことだった。
戦艦ボロジノは我が聯合艦隊と会敵した際、バルチック艦隊の先頭に配置され、いわゆる東郷ターンの直後から、集中放火を浴びる。それでも艦隊を嚮導し、最期まで砲撃を放ち続けたという。
▽ロシア軍の前弩級戦艦「ボロジノ」(file)
「この艦の堅忍不抜と勇気は例の無いものである」
聯合艦隊側から日本海海戦を見守った英国武官は、そう評した。戦記によるとボロジノは戦艦「富士」の砲撃により損傷した後、2回の大爆発を起こし、波間に消えた。
同艦はボロジノ級1番艦だが、我が国では有名とは言えない。知名度では、バルチック艦隊司令官が搭乗し、同じく撃沈された旗艦「クニャージ・スワロフ」に軍配が上がる。
▽極東に向かう「クニャージ・スワロフ」(file)
「バトル・オブ・ツシマに於けるロシア軍の悪名高い敗北では、『モスクワ』より少し小型の『ボロジノ』が爆発によって乗員855人の1人を除く全員が死亡した」(4月15日付け英メール紙)
ロシア黒海艦隊・旗艦「モスクワ」の沈没に関連して、英メール紙が何世代の前の露戦艦ボロジノを引き合いに出したのだ。比較対象に同艦を選んだ理由は謎で、興味を惹かれた。
ちなみに元陸幕監部分析官の西村金一氏は、ロシア太平洋艦隊旗艦「ペトロパブロフスク」との類似を指摘する。同艦は明治37年、旅順口閉塞作戦で機雷に接触し、智将マカロフ提督と共に沈んだ。
▽旅順沖で炎上する「ペトロパブロフスク」(file)
その命日が4月13日だった。「モスクワ」が黒海で対艦ミサイルを浴びた日と同じで、火災による誘爆・沈没の過程も似ている。118年の時を超えた数奇な巡り合わせである。
【自軍兵力を過信し、敵軍を見下す】
「戦時中にロシア海軍が旗艦を喪ったのは、1904〜5年の日露戦争以来のことだ」(4月15日付けWSJ紙)
米WSJ紙は比較として「クニャージ・スワロフ」を挙げる。妥当な線だ。一方、捏造紙はモスクワ沈没を「大和に匹敵」という見出しを掲げ、この期に及んでも反日要素を捩じ込んでくる…
参照:朝日新聞4月16日『「モスクワ」沈没は「大和」に匹敵 元海将補が見たロシア軍への打撃』
悲壮感漂う天一号作戦は大東亜戦争末期だ。類似点は4月という季節くらいで、比較するなら同じ巡洋艦「矢矧」だろう。捏造紙は、モスクワ沈没の戦史的な位置付けがまるで分かっていない。
「ロシア黒海艦隊は戦史研究家にデジャブを抱かせた」(4月19日付け英テレグラフ紙)
『海戦の世界史』など多くの著作で知られる英国の歴史学者ジェレミー・ブラックは、興奮を隠せない。手始めに日本海海戦を引き合いに出すが、「唯一の類似点ではない」と釘を刺す。
「近代になって初めてヨーロッパの大国が、ほんの何年か前まで鎖国し、封建社会だったアジアの国家に敗れた。それはロシアにとって深刻な国家的屈辱だった」(前掲紙)
プーチンはウクライナを取るに足らない国家と見下していた。帝政ロシアも明治の我が国を他の植民地と同等と見做し、人種差別的な傲慢さも身に付けていたと指摘する。
「日本の艦隊は英海軍モデルに準って技術的に進歩していた。ロシア海軍は開戦した後、自分たちが絶望的に時代遅れであることを知った」(前掲紙)
▽独生まれの装甲巡洋艦「八雲」(時事file)
118年後のロシア軍も、新しい形態の戦争に対して脆弱だったというのだ。ここで英歴史学者は、ロマノフ朝のラスト・ツァーリとプーチンを重ねて論じる。
「皇帝ニコライ2世はロシア軍の兵力が最終的に勝利をもたらすと信じ、最初の和平の機会を逸した」(前掲紙)
歴史学者J・ブラックがテレグラフ紙に寄稿したオピニオンは短く、詳細な解説は省かれている。それでもプーチン政権が置かれた現状と帝政ロシアの終焉が似通っているという論旨は明確に伝わる。
▽クリミア中心都市のニコライ2世胸像
もう少し、ダイジェスト版の歴史講義を聞いてみよう。
【プーチンがニコライ2世になる日】
「ウクライナと日露戦争は別物だ。けれども、もし自分がプーチンだったら、物語の中に好ましくない要素を見付けて不安で一杯になるだろう」(前掲紙)
満州の大連がダイニーというロシア風の名前だった時代があった。日清戦争後の不当な三国干渉によって、遼東半島の南端はロシアの租借地となり、極東艦隊の軍事要塞と化した。
半島南端部をクリミア、旅順軍港を黒海艦隊の伝統的な根拠地セヴァストポリに置き換えることも出来るだろう。これは筆者が今思い付いた牽強付会だが、数年後に戦争勃発の原因となる点も似ている。
▽遼東半島の簡略図(アジア歴史資料センター)
「1905年、ニコライ2世に対する反乱が公然と起こり、支配権を回復するまでに多くの譲歩を余儀なくされた」(前掲紙)
初めて経験する激烈な攻城戦を経て我が軍は明治38年1月1日、旅順攻略に成功。ロシア占領軍の司令官は降伏した。その約1週間後に首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」が起きる。
ロシア第一革命は、日露戦争での相次ぐ惨敗で大義を失し、戦費が嵩む中で始まった。プーチンも“2日間戦争”に失敗した挙句、膨大な軍事費を垂れ流す泥沼に両脚を突っ込んでいる。
▽セヴァストポリ沖の「モスクワ」4月10日(メール)
ウクライナ侵攻直後に沸騰したロシア国内の反戦気運は、弾圧の効果があったとしても、沈静化した。コミュニストとアナーキストが暴れ回ったロマノフ朝末期とは違う。
だが、今次の戦争は開戦から2ヵ月を迎える所で、日露戦争に例えると旅順口閉塞作戦の中盤だ。戦闘が長期化し、経済制裁のダメージが顕著になれば、厭戦ムードが殺気に変わるだろう。
「ニコライ2世と同様にプーチンの軍隊も屈辱に直面している。何年先になるか判らないが、敗北は現代の皇帝の恐ろしい治世の終わりの始まりになるかも知れない」(前掲紙)
▽“膝詰談判”するプーチンとショイグ4月21日(共同)
最後は希望的観測だ。共産主義者によるニコライ2世一家の皆殺しは、第1次大戦とロシア10月革命を経た1918年である。日露戦争の大敗から13年が過ぎていた。
英歴史学者は日露戦争を軸にプーチンの“ニコライ2世化”に期待を抱く。しかし、我が国にとって帝政ロシアの終焉は、より邪悪な敵を招き寄せる結果となった。北方の脅威は今も変わりがない。
【170年間つづく北方の脅威】
防衛省は4月20日、ウロダイI級駆逐艦など3隻のロシア艦艇が対馬海峡を北上したと発表した。ウクライナ戦争勃発後、3月にも同じ海域の通過が確認されている。
▽対馬海峡のウダロイI級駆逐艦4月20日(海自)
ちなみに昨年5月、対馬海峡を抜けて東シナ海に向かったロシア艦はスラヴァ級ミサイル巡洋艦「ヴァリャーク」だ。黒海に沈んだ「モスクワ」と同級の姉妹艦である。
▽対馬海峡抜ける「ヴァリャーク」R3年5月(統幕監部)
対馬は日露関係で因縁の場所だ。日本海海戦の舞台に近いだけではない。江戸幕府を震撼させたロシア軍艦の占拠、ポサドニック号事件の現場が対馬だった。
文久元年(1861年)の冬、乗員360人のロシア軍艦は対馬中央の浅茅湾に修理名目で侵入。島内に兵舎・訓練施設を造り、英軍艦が介入するまで半年間に渡り占拠した。狙いは不凍港の建設だった。
▽占拠事件を伝える対馬の石碑(西日本新聞)
この占拠事件を起こす8年前、ロシア軍は樺太に侵攻し、全島の領有を一方的に宣言。樺太を統治する松前藩は対処不能に陥るが、クリミア戦争の火蓋が切られ、ロシアの軍事占領は一時的なもので終わる。
樺太軍事侵攻が起きた嘉永6年はペリー来航の年だ。黒船は歴史教科書にもダイナミックに描かれるが、ロシア軍による同時期の軍事侵攻は殆ど語られない。
▽樺太国境をパトロールする我が国の警察官(file)
「むしろ事件発生の切っ掛けは、日露関係が主体であった」(大野芳著『伊藤博文暗殺事件』17頁)
朝鮮人テロリスト安重根を現行犯逮捕したのはロシアの官憲。ハルピンはロシアの租借地で、鉄道も駅舎もロシアの所有物だった。日露戦争敗北後も大きな影響を保ち、謀略に勤しんでいたのだ。
関連エントリ:平成25年11月23日『2階のスナイパーと安重根…ロシアを忘れた反日史観』
大東亜戦争に至る我が国の近代史から意図的に省かれるロシアの関わり。それは筆者の持論でもある。ウラジオストクから来た安重根も“植民地化への抵抗”云々と単純化され、反日の記号となった。
▽ハルピン駅で博文翁迎える露蔵相らM42年(file)
「日本悪玉論」で貫かれた一般的な歴史教科書は、善悪二元論に基づいた親ロ派と言っても過言ではない。この単純化作業は教育界に留まらず、戦後社会の隅々に及ぶ。
キーウ周辺の非道行為に国際社会は衝撃を受けているが、我々日本人にとっては驚くに値しない。昭和20年の8月、赤軍兵がゴブリンの群れに等しい残虐性を秘めていることを思い知らされた。
▽占守島に残る我が軍の戦車H29年(産経)
嘉永6年の樺太侵攻以来、実に170年間、我が国にとってロシアは北方の脅威であり続けた。近い将来にプーチン政権が倒れても、ロシアが解体・分割されない限り、脅威は変わらない。
厄介なのは特亜三国だけではない。ウクライナ戦争を機に、我が国は北方に巨大な地政学上のリスクを抱えていることを強く認識する必要がある。
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます
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参考記事:
□英テレグラフ4月19日『Vladimir Putin now faces a 1905-style national humiliation』
↓テレグラフ有料記事と同一の内容
□ウクライナトゥデイ4月20日『Vladimir Putin now faces a 1905-style national humiliation』
□WSJ4月15日『Russia’s Sunken Warship Moskva Recalls Great World War II Naval Battles』
□英メール4月15日『Russia’s 'broken arrow': Fears that NUCLEAR MISSILES sank with Putin's flagship Moskva amid claims that 452 of the 510 crew have drowned and top admiral has been arrested after cruiser was 'hit by Ukrainian missile’』
□JB Press4月21日『総攻撃始めたロシア軍に襲いかかるNATOの最新兵器 日露戦争での旗艦「ペトロパブロフスク」と同日にモスクワ撃沈』
□読売新聞4月18日『「日露戦争以来」のロシア軍旗艦沈没、プーチン氏にも強い衝撃か…死傷者多数の可能性』
□西日本新聞4月14日『島民2人犠牲…160年前のロシア軍艦「ポサドニック号事件」当時の記憶を刻んだ遺構』
□ロシア・ビヨンド’15年5月27日『日本海海戦:ロシア海軍史上最悪の惨敗!…』
800人を超す乗組員の中で生存者は僅か1人だった。日本海海戦初日の猛攻で、ロシアが誇る戦艦「ボロジノ」は炎に包まれ、海中に没した。明治38年(1905)5月27日夜のことだった。
戦艦ボロジノは我が聯合艦隊と会敵した際、バルチック艦隊の先頭に配置され、いわゆる東郷ターンの直後から、集中放火を浴びる。それでも艦隊を嚮導し、最期まで砲撃を放ち続けたという。
▽ロシア軍の前弩級戦艦「ボロジノ」(file)
「この艦の堅忍不抜と勇気は例の無いものである」
聯合艦隊側から日本海海戦を見守った英国武官は、そう評した。戦記によるとボロジノは戦艦「富士」の砲撃により損傷した後、2回の大爆発を起こし、波間に消えた。
同艦はボロジノ級1番艦だが、我が国では有名とは言えない。知名度では、バルチック艦隊司令官が搭乗し、同じく撃沈された旗艦「クニャージ・スワロフ」に軍配が上がる。
▽極東に向かう「クニャージ・スワロフ」(file)
「バトル・オブ・ツシマに於けるロシア軍の悪名高い敗北では、『モスクワ』より少し小型の『ボロジノ』が爆発によって乗員855人の1人を除く全員が死亡した」(4月15日付け英メール紙)
ロシア黒海艦隊・旗艦「モスクワ」の沈没に関連して、英メール紙が何世代の前の露戦艦ボロジノを引き合いに出したのだ。比較対象に同艦を選んだ理由は謎で、興味を惹かれた。
ちなみに元陸幕監部分析官の西村金一氏は、ロシア太平洋艦隊旗艦「ペトロパブロフスク」との類似を指摘する。同艦は明治37年、旅順口閉塞作戦で機雷に接触し、智将マカロフ提督と共に沈んだ。
▽旅順沖で炎上する「ペトロパブロフスク」(file)
その命日が4月13日だった。「モスクワ」が黒海で対艦ミサイルを浴びた日と同じで、火災による誘爆・沈没の過程も似ている。118年の時を超えた数奇な巡り合わせである。
【自軍兵力を過信し、敵軍を見下す】
「戦時中にロシア海軍が旗艦を喪ったのは、1904〜5年の日露戦争以来のことだ」(4月15日付けWSJ紙)
米WSJ紙は比較として「クニャージ・スワロフ」を挙げる。妥当な線だ。一方、捏造紙はモスクワ沈没を「大和に匹敵」という見出しを掲げ、この期に及んでも反日要素を捩じ込んでくる…
参照:朝日新聞4月16日『「モスクワ」沈没は「大和」に匹敵 元海将補が見たロシア軍への打撃』
悲壮感漂う天一号作戦は大東亜戦争末期だ。類似点は4月という季節くらいで、比較するなら同じ巡洋艦「矢矧」だろう。捏造紙は、モスクワ沈没の戦史的な位置付けがまるで分かっていない。
「ロシア黒海艦隊は戦史研究家にデジャブを抱かせた」(4月19日付け英テレグラフ紙)
『海戦の世界史』など多くの著作で知られる英国の歴史学者ジェレミー・ブラックは、興奮を隠せない。手始めに日本海海戦を引き合いに出すが、「唯一の類似点ではない」と釘を刺す。
「近代になって初めてヨーロッパの大国が、ほんの何年か前まで鎖国し、封建社会だったアジアの国家に敗れた。それはロシアにとって深刻な国家的屈辱だった」(前掲紙)
プーチンはウクライナを取るに足らない国家と見下していた。帝政ロシアも明治の我が国を他の植民地と同等と見做し、人種差別的な傲慢さも身に付けていたと指摘する。
「日本の艦隊は英海軍モデルに準って技術的に進歩していた。ロシア海軍は開戦した後、自分たちが絶望的に時代遅れであることを知った」(前掲紙)
▽独生まれの装甲巡洋艦「八雲」(時事file)
118年後のロシア軍も、新しい形態の戦争に対して脆弱だったというのだ。ここで英歴史学者は、ロマノフ朝のラスト・ツァーリとプーチンを重ねて論じる。
「皇帝ニコライ2世はロシア軍の兵力が最終的に勝利をもたらすと信じ、最初の和平の機会を逸した」(前掲紙)
歴史学者J・ブラックがテレグラフ紙に寄稿したオピニオンは短く、詳細な解説は省かれている。それでもプーチン政権が置かれた現状と帝政ロシアの終焉が似通っているという論旨は明確に伝わる。
▽クリミア中心都市のニコライ2世胸像
もう少し、ダイジェスト版の歴史講義を聞いてみよう。
【プーチンがニコライ2世になる日】
「ウクライナと日露戦争は別物だ。けれども、もし自分がプーチンだったら、物語の中に好ましくない要素を見付けて不安で一杯になるだろう」(前掲紙)
満州の大連がダイニーというロシア風の名前だった時代があった。日清戦争後の不当な三国干渉によって、遼東半島の南端はロシアの租借地となり、極東艦隊の軍事要塞と化した。
半島南端部をクリミア、旅順軍港を黒海艦隊の伝統的な根拠地セヴァストポリに置き換えることも出来るだろう。これは筆者が今思い付いた牽強付会だが、数年後に戦争勃発の原因となる点も似ている。
▽遼東半島の簡略図(アジア歴史資料センター)
「1905年、ニコライ2世に対する反乱が公然と起こり、支配権を回復するまでに多くの譲歩を余儀なくされた」(前掲紙)
初めて経験する激烈な攻城戦を経て我が軍は明治38年1月1日、旅順攻略に成功。ロシア占領軍の司令官は降伏した。その約1週間後に首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」が起きる。
ロシア第一革命は、日露戦争での相次ぐ惨敗で大義を失し、戦費が嵩む中で始まった。プーチンも“2日間戦争”に失敗した挙句、膨大な軍事費を垂れ流す泥沼に両脚を突っ込んでいる。
▽セヴァストポリ沖の「モスクワ」4月10日(メール)
ウクライナ侵攻直後に沸騰したロシア国内の反戦気運は、弾圧の効果があったとしても、沈静化した。コミュニストとアナーキストが暴れ回ったロマノフ朝末期とは違う。
だが、今次の戦争は開戦から2ヵ月を迎える所で、日露戦争に例えると旅順口閉塞作戦の中盤だ。戦闘が長期化し、経済制裁のダメージが顕著になれば、厭戦ムードが殺気に変わるだろう。
「ニコライ2世と同様にプーチンの軍隊も屈辱に直面している。何年先になるか判らないが、敗北は現代の皇帝の恐ろしい治世の終わりの始まりになるかも知れない」(前掲紙)
▽“膝詰談判”するプーチンとショイグ4月21日(共同)
最後は希望的観測だ。共産主義者によるニコライ2世一家の皆殺しは、第1次大戦とロシア10月革命を経た1918年である。日露戦争の大敗から13年が過ぎていた。
英歴史学者は日露戦争を軸にプーチンの“ニコライ2世化”に期待を抱く。しかし、我が国にとって帝政ロシアの終焉は、より邪悪な敵を招き寄せる結果となった。北方の脅威は今も変わりがない。
【170年間つづく北方の脅威】
防衛省は4月20日、ウロダイI級駆逐艦など3隻のロシア艦艇が対馬海峡を北上したと発表した。ウクライナ戦争勃発後、3月にも同じ海域の通過が確認されている。
▽対馬海峡のウダロイI級駆逐艦4月20日(海自)
ちなみに昨年5月、対馬海峡を抜けて東シナ海に向かったロシア艦はスラヴァ級ミサイル巡洋艦「ヴァリャーク」だ。黒海に沈んだ「モスクワ」と同級の姉妹艦である。
▽対馬海峡抜ける「ヴァリャーク」R3年5月(統幕監部)
対馬は日露関係で因縁の場所だ。日本海海戦の舞台に近いだけではない。江戸幕府を震撼させたロシア軍艦の占拠、ポサドニック号事件の現場が対馬だった。
文久元年(1861年)の冬、乗員360人のロシア軍艦は対馬中央の浅茅湾に修理名目で侵入。島内に兵舎・訓練施設を造り、英軍艦が介入するまで半年間に渡り占拠した。狙いは不凍港の建設だった。
▽占拠事件を伝える対馬の石碑(西日本新聞)
この占拠事件を起こす8年前、ロシア軍は樺太に侵攻し、全島の領有を一方的に宣言。樺太を統治する松前藩は対処不能に陥るが、クリミア戦争の火蓋が切られ、ロシアの軍事占領は一時的なもので終わる。
樺太軍事侵攻が起きた嘉永6年はペリー来航の年だ。黒船は歴史教科書にもダイナミックに描かれるが、ロシア軍による同時期の軍事侵攻は殆ど語られない。
▽樺太国境をパトロールする我が国の警察官(file)
「むしろ事件発生の切っ掛けは、日露関係が主体であった」(大野芳著『伊藤博文暗殺事件』17頁)
朝鮮人テロリスト安重根を現行犯逮捕したのはロシアの官憲。ハルピンはロシアの租借地で、鉄道も駅舎もロシアの所有物だった。日露戦争敗北後も大きな影響を保ち、謀略に勤しんでいたのだ。
関連エントリ:平成25年11月23日『2階のスナイパーと安重根…ロシアを忘れた反日史観』
大東亜戦争に至る我が国の近代史から意図的に省かれるロシアの関わり。それは筆者の持論でもある。ウラジオストクから来た安重根も“植民地化への抵抗”云々と単純化され、反日の記号となった。
▽ハルピン駅で博文翁迎える露蔵相らM42年(file)
「日本悪玉論」で貫かれた一般的な歴史教科書は、善悪二元論に基づいた親ロ派と言っても過言ではない。この単純化作業は教育界に留まらず、戦後社会の隅々に及ぶ。
キーウ周辺の非道行為に国際社会は衝撃を受けているが、我々日本人にとっては驚くに値しない。昭和20年の8月、赤軍兵がゴブリンの群れに等しい残虐性を秘めていることを思い知らされた。
▽占守島に残る我が軍の戦車H29年(産経)
嘉永6年の樺太侵攻以来、実に170年間、我が国にとってロシアは北方の脅威であり続けた。近い将来にプーチン政権が倒れても、ロシアが解体・分割されない限り、脅威は変わらない。
厄介なのは特亜三国だけではない。ウクライナ戦争を機に、我が国は北方に巨大な地政学上のリスクを抱えていることを強く認識する必要がある。
〆
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参考記事:
□英テレグラフ4月19日『Vladimir Putin now faces a 1905-style national humiliation』
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□ウクライナトゥデイ4月20日『Vladimir Putin now faces a 1905-style national humiliation』
□WSJ4月15日『Russia’s Sunken Warship Moskva Recalls Great World War II Naval Battles』
□英メール4月15日『Russia’s 'broken arrow': Fears that NUCLEAR MISSILES sank with Putin's flagship Moskva amid claims that 452 of the 510 crew have drowned and top admiral has been arrested after cruiser was 'hit by Ukrainian missile’』
□JB Press4月21日『総攻撃始めたロシア軍に襲いかかるNATOの最新兵器 日露戦争での旗艦「ペトロパブロフスク」と同日にモスクワ撃沈』
□読売新聞4月18日『「日露戦争以来」のロシア軍旗艦沈没、プーチン氏にも強い衝撃か…死傷者多数の可能性』
□西日本新聞4月14日『島民2人犠牲…160年前のロシア軍艦「ポサドニック号事件」当時の記憶を刻んだ遺構』
□ロシア・ビヨンド’15年5月27日『日本海海戦:ロシア海軍史上最悪の惨敗!…』
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